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《自己コントロール》

2014.05.09

Category { 教室トーク }
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バッティング
[コントロールする プラクティスする]

 コントロールとは具合よく調整することでもありますが、どちらかというと統制、管理といった支配的要素が強いように感じます。プラクティスは、前者に向けて繰り返し、繰り返し練習をするという意味で、最近よくつかわれているのかもしれません。また、「癖を付けなくちゃ」「習慣にしなくちゃ」といった声もよくよく聞きます。
 インドで発祥したヨーガはアメリカナイズ、エクササイズ化され、インドへ行っても、西洋人の先生が教えている光景をみたりします。逆輸入です。そのような今日、ヨーガで使われやすくなったこれらの言葉に注目して書きたいと思います。

 コントロールは英語です。コントロールに相当する言語はインドにはありません。したがってヨーガにも無いわけですが、代わりに「修練。修行。達成。目標に導く」意味のサーダナという言葉があります。
 また、少し意味合いは離れるかもしれませんが、「熏習」ヴァーサナーがあります。後者は残像されている印象がある何らかの機会によって記憶として蘇ってくるという意味と、何も匂いがなかった衣服に香の香りを付けていくとしだいに香の香りを放つようになるように、ある行動や言葉や考えを繰り返していくことによって、徐々にその人の心の中に習慣性が染みこんでいくという意味があります。
 ヨーガは双方を包括した全体性のうちに双方の能力を存分に生かし合うことへの調整の手助けをするきっかけに気づかせてくれる行です。だからヨーガによってコントロールできるようになるのでは?と思われるかもしれませんが、最後がまったく正反対に違います。
 双方の能力を生かすとき、双方のことをよく理解したから「(調整)する」のがコントロールに対し、ヨーガは双方をよく理解したから「(調整)しない」のです。双方の能力がまだ出ていない段階であれば、それぞれの能力がまず回復するよう、余計なものを除く引き算をします。何か加えたり足したり補正したりして治療することは何もありません。余計な不自然性の異物を排除することで、あるがままの本質の能力が出てくるという考え方です。
 ヨーガ実習でわたくしが口癖のように言う コトノハ のひとつがあります。
「[する]を[しない]のがヨーガ…」
リーフ(葉)のように言葉はふかれて風のように去ってしまうのものです。あまり印象にないかもしれません。ヨーガというのは、相互のバランスを感じ合うものですから、何か特別な行為をすることは、すべて何かを誕生させてしまいますから、そのような心さえも抱かずに、ただただ、今の行為を見ているのです。みていることは続いています。
 運動と体操とヨーガのちがいを補足します。(養成コーステキストより)
 運動は体を動かし運搬することです。動きは必ずしも一定の形式やシステムに基づく必要はありません。動くことに伴う発汗など、エネルギーの発散が健康に良いと期待されるもので運動機能を高めることが主な目的です。随意運動は大変日常的なもので、生活環境・範囲により運動機能は変化します。
 体操は意識的に体を一定形式、システムに基づいて操りコントロールすること。筋肉や関節を主として身体を整えることが目的。体操は自らの意思によって、身体を操るため全ての動きは意識的であって、無意識的な操作は基本的にはない。体操は運動の領域に含まれる。
 これらに対してヨーガとは、動きそのものよりもある一定の間じっと静止している状態のときがヨーガである部分ともいえます。ある特定の環境内で身体内部の変化を待つことにねらいがあります。特定の体位でじっと静止することによって、わたしたちの能力である自然力がはたらき、環境になじもうと身体内ははたらきます。そして、また戻ると、改めて日常の流れを起こし、つまり再復興する。循環機能や肉体のみならずそれに気づく精神性にまで、本能が引き出される期待は拡がります。動きそのものは目的に至るまでのプロセスであり、直接のヨーガではない。むしろヨーガの目的は静止している時に、或いは終えた後にあります。
 
 ヨーガ行者や聖者、尊者をスヴァーミー、あるいは「〜さま」の意味のジーを付けてスヴァーミージーと呼ばれます。僧侶です。出家され、何も持ちません。日本と違って家族も妻ももちません。聖地の寺院や道場にいくと、こういった方々にお会いすることができます。スヴァーミージーと呼ばれる方々がみんなヨーガ(私たちが想像する身体を動かしポーズをするヨーガです)をするかというと、しません。ヨーガのポーズをするのは、日々の努めを全うする手段として実践されている僧侶は日本のお坊さんらと比較すれば、多くいるかもしれませんが、全くされない僧侶もおられます。それでもヨーガの道ゆくスヴァーミーです。
 つまり、いわゆる訓練している人は違うとか、プラクティスはたいせつだといいますが、前述の話をインドではなく日本で暮らす私たちの日常に当てはめて理解しなおしてみましょう。自分の欲望や目指したい名誉や財産のためという自己の行為とせずに日々の役割に全うし、ご縁で繋がった支えあう家族を養い、跡を継いで往く者が苦しまぬように捧げ残す、奉納できるよう尽力され努めるなら、そこに香は薫り、訓練しなくても、プラクティスしなくても、しているのと同じ生活になっているということでしょう。目に見える形を追うことばかりではないということです。己という個人の枠を超えて、双方や、双方を含む全体の歓びのためにはたらけたのなら、立派なヨーガ行者でありましょう。
 どうぞ、自己のコントロールではなく、他者とのバランスのために理解をふかめられ、結果としてもしコントロールできるようになったとわかっても、コントロールするのではなく、そうなることを待ってみる生活をしませんか?

 そう、少年たちは夢を希望に、無心にバッドを振るのであった…
今日は何回ふったからコーチに褒められるかなとか、だいぶ腕っ節も太くなって、気になる子にふりむいてもらえるかなあ〜なーんて、ちょっとは思いながらも打ち払っているのだろうヽ(´ー`)ノ

Hari Om tat sat
Tryambakam Yoga Center

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