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【「食」の講座 】

2014.07.05

Category { サット・サンガ }
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tryambakam盛岡 屋上(今朝6時)

tryambakam盛岡 屋上(今朝6時)

お昼のまどろみに…先日行った「食」の講座を思い浮かべ、整理整頓していました。

盛岡校では8月24日と9月14日のサンガでお伝えになります。
狛江校では9月20日に第2回目ですね。

【食事について思うこと】
 人が口にする食物は、どうしても口にする必要がありました。どんな時でも、人は源となるエネルギーが必要でした。源となるエネルギーは口から入れる「食物」が最も適当で、すぐに力になることも実感しました。

 必要な事をする…つまり「仕事」。食物を摂る「食事」は人間にとって最も身近でだれもに与えられた仕事とも言えます。

 食事という仕事をすればエネルギーは満ち、生きることができました。わたしたちのみならず、目に映る凡てのものたち…動植物や鉱物、海、山、川、大地…みんな、エネルギーを源として循環して働いていました。何とキレイな仕事だろうか。

 そして仕事は教えてくれました。自分という身が身勝手に存在しているのではなくて、全体世界のはたらきのある一部分になることができると。また、一部分になるために、何をどうしたらいいかといろいろ工夫することによって、沈黙の仕事は応えてくれました。これが人の叡智というものでしょうか。

 カミサマは人間唯一に智慧の能力をお与えになったという。神の世話ができるように、単なるエネルギーの循環のみならず、よりよく生きるかし合いを工夫できる智慧の人間をつくられたと。神があらゆるところに存在するなら、どんな世話であれ神をお世話していることになるということか!

 だから人と人を存在させることで生かし合いの生まれる人間としました。そして、食事という仕事によって、いつでも神を感じることのできる時間を授けました。

 食物によって得たエネルギーを人間は我が者顔でコントロールできるようになりました。神との約束は忘れられました。一日の中に在った神と通じる食事の時間をすっかり忘れてしまいました。既にこの時、食物は生かし合いの食物循環から、空腹を満たし満足を与えてくれるものへと変容してしまいました。
 きっとカミサマは悲しまれているのではないでしょうか。
 本来食事は、カミサマとの儀礼。カミサマへ食物をお捧げしている時間。

 カミサマには歓んでいただきたい。ですから、心を込めて食物を準備します。高価であるとかまったくもって関係がありません。そんなことよりも「いのち」ある食べものをお捧げしたいものです。

 食事をする場所や時間、器にしてもそうです。素晴らしい建造物の場所も、歓ばす時間が多かったり、長かったり、器も立派…、それはそれでカミサマは歓んでくださるでしょう。
 しかしどうでしょう。その行為が三日坊主だとか、時々であったら。どんなに些細で質素でも、心を込めて作られた少しの食物であれば、カミサマは歓んでお召し上がりになり、そして「ありがとう」と微笑んでくださると感じます。

 ほんとうのやさしさとは、見えない程地道な姿かもしれません。継続という断続のとき、そこには波立たぬ水面のような、広く平等に広がる安らぎが、自然と生まれているものです。
そして、さらに繋ぐものに「いのち」があれば、「いのち」はつながれ、生かし合うはたらきが生まれるでしょう。
 「いのち」は食べものだけがつなぐのではないようです。日常の言葉や行為といった人々の姿勢、またその準備や後始末も含めて、人の心のエネルギーとなり「いのち」の循環へとつながっていくようです。
 無理に厳選してみたり、飾り立てることは断片的で継続するわけがなく、仮にできたとしても次の機会にさらなる無理や過剰を生む。この世界のありとあらゆるものにやどる「いのち」の歓びは、お互いが働きあう循環によって起こるバランスのよいヴァイブレーション。交響曲。

 この三年間の被災地を行き来する中で、リアルに感じた実体験です。それまでも充分わかっていると思っていましたが、ぜんぜんわかっていませんでした。無能なことにも人は「切実」という危機的実感がないとわからないのかもしれません。

 やさしさとは、手を差し伸べることでも傍にいることでもないこと。
 言葉はいらない継続。約束。
 目に見える「いのち」の循環。
 それを讃え合う交響曲を奏であう働き。
 ヨーガで言うところのプラーナ。
 
 働くことを「稼ぐ」と地元の人は言います。
「稼がないと食べさらない」。
「食べるもんをスーパーさ行って買わさって、選んで…。それを食べるという気持ちにならないのねぇ」。
暮らしそのものが目に見える季節折々の自然な循環で成り立っているので、食物を選ぶということなど存在するわけがなかった。食物や食事は自然の折り合いや、互いの稼ぎ(働き)でその土地が成り立っているのです。…恵みをいただき、恵みの力へ向かって協力してみんなで稼せぐ…。そして少しをいただいた。ゆるくない稼ぎだもの(キツイ働きだもの)。
 自然のプラーナと生き合って暮らしている人々にはそのヴァイブレーションが自然に聞こえてくるのでしょう。だから時の折には宴をし、祭礼をし、大自然界との交響曲を夜が明けるまで楽しみ讃え合うのでしょう。

 このような現代のなか、食に限らずわたしたちは、あらゆる認識を勘違いしているかもしれません。鈍く鈍感になっていた私たちを目覚めさせてくれるはたらきは随所各地で起こっています。若い世代には一部でも確実に力強い、そのような働きがあります。豊かな日本人に成長した子らは、世界を見る機会が現在の大人たちよりもあり、経験、実体験をしました。幼い胸に刻まれ響いた何かが、今現在のちからとなっているのでしょう。
 そうした動きもあるのに、情報もあるのに、問題であることは…「でも実際には無理」と、現在の生活を維持するためには仕方ないと便利で手軽なものを選んでいるために、噓の、「いのち」のない、勘違いしたままの経済の後押しを、知らずとしてしまっていることです。

 どうしたら癖になっているモチベーションをチェンジできるでしょうか!
 切実に心に響く実体験こそ、認識の根本を立直してくれます。機会を見つけて、ある一定の期間、自然と共に生きている人たちと一緒に生活することは、何よりの近道で、目覚めさせてくれます。機会を探してでも人に役立つ活動を続けることも、必ず目覚めになります。
 その時間もないのだと、忙しい仕事の任務の最中にある人もいるかもしれません。
 私が長くヨーガに関わり、これを続けていることの理由はここにあるのですが、最後に、どうしても…という時間の無い方にお勧めしているのがヨーガです。「いま」に気付く生活のきっかけとなるヨーガが、特別に経験する機会を設けなくても、日常生活をしながら気付き、心や精神の変化が起きると考えるためです。

 さあ、それでは少しヨーガをいたしましょうかぁヽ(´ー`)ノ 

Hari Om tat sat
記録:トリャンバカム・ヨーガ・センター 早野智子

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