ひと呟き× yogini Tryambakam (?。?)ー2016.4月ー
「ヨーガと料金って反比例ですよね」
反比例…
「そうでしょうか…。」と小さな声で応じました。
その後何も仰らなかったので、応答は終わってしまいました。
とても大切なことで
きちんとご自身で理解しなくては、一生反比例のまま?そう思うので、少し書くことにします。
ヨーガに限ったことではありません。
お金を支払う時、すべてにおいて。
反比例というのは、心が癒やされたり、満足するのに
料金において癒やされないということ…かしら。
スヴァーミー・シヴァーナンダの口癖が
「与えなさい、そして与えなさい」
「与え続けて貧乏になることはありません」と。
布施。喜捨。与えること(ダーナ)を私たちはヨーガで学んでいます。
世の中はダーナによって平和な循環へと開展してます。私がしている。という「私」利己的な偏りでバランスが崩壊し、結果による利益や満足を求める物質的な世界に踏み込んだまま抜け出せなくなります。
与え合い(愛)で循環されていることを完全に理解すること。
世の中の支払いは
「支払い」ではなく、「与えて」いるのです。
「これなら(これが)私が与えることのできるものです」と。
現代ではその与えは支払いをお金というものでしています。
従って「ヨーガとお金って反比例ですよね」
応答:いいえ、あなたが「与える」とき、互いを伸ばし高め合う比例の循環です。
逆に「私がお金を払っている」と想えば反比例の循環になるでしょう。
損得比較の問題になるためです。
損得を考えた瞬間から、あなたのエネルギーはそこにとても費やされ、結果的に疲労し、何の循環、支え合いも起こらず、再び孤立の世界です。
「与える」という行為によって与えられたモノが高まっていくという考え。
与えたご自身の内にも、与えた行為による喜びや健やかな心が育まれていきます。
準備するのは「私が買う」お金ではなく
私からあなたへ送る、「与える」ダーナの心。
ひとつ注意することがあります。
真実を見る目を。何でもかんでも…ではない。
また、流行、多くの人達が向いている方だからと与えるのでもありません。
理解がないところに与えても互いが苦しむ。
そのためにヨーガには
与え続けられ行為する身体をタフに保つ体操の道と
真実を見つめる目を高め続ける智慧の道があります。
真実には脈々と根ざしている神の心があります。
そのモノが発祥した理由、そして存続されてきた経緯には多くの偉人の祈りが。
真実の事象には脈が、命の脈があります。個人的な利己的な行為には打っている脈はありません。発祥がよくワカラナイ事象というのは真実ではない、突発的なモノかもしれません。大袈裟ですが地球の存続に讃えられているものではないと思います。
世間を見渡してみますと、お化け商品がたくさんあります。事業や店舗もそうです。事業主や店舗は悪者ではなくて、知らないで良いと思い込んでしまっています。識別することを知らなかったために良かれと思い込まれてしまっていますから、気づいた周囲の者が与えることです。真実を。
どうしても理解できない。相手がたいへん意地悪である。悪者である。よくわからない。
もし、一緒に暮らしている、あるいは同じ職場など身近であるなら
尽力してその方の力が伸びるよう心を込めて尽くし与えることです。
だんだんに、相手のことと同時に自分自身も高まります。互いがこれまでの思い違いに気づきます。
何か縁あって近くに居るのでしょうから…。
何か縁あってあなたと同じようにその場所に感動したり、おなじように社長が好きだとか、社風が好きだとか、社で応援している物品に価値を見出しているとか…何らかしら同じの理由で集まったのですから。
話が広がりましたが
反比例などありません。
世の中に排除するものなど一切ありません。
すべてが比例への道です。
トリャンバカム講師一同は
あらゆるヨーガを学び、今お世話になっている狛江市や盛岡市や岩泉町にできることは
ヨーガを伝えることなので、ヨーガを一心に伝えようと努力します。
みなさまが歓んで受講いただけるので
その時間によってこうした一心も高まっております。
合掌
Hari Om tat sat