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21.06.25

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泉の森会館さまのご慈悲を受けて🙏
夜ヨーガの後、翌日の朝ヨーガがあるから<片付け>をしないで、<教室をセットした状態のまま帰っても良い>ですよ、という通達をいただきました😂😂😍
今夜はその実際の1日目で

あれまっ!!

なんて楽なのでしょう!!!
時間も30分弱早く退室できました\(^o^)/

何か、「お片付けをしないで申し訳ない」気持ちに。
お世話になったところに、礼拝のように静かに片付けをする時間もヨーガだったので(笑)

しかーし、
早く帰宅できてみると、いつもならバタンQっ💤ですが余力が漲っています(笑)

一日を省みる瞑想
事務処理
自身の後始末内省

ができるのでしたーーー。いやーありがたい!
朝、開いた小さな開花のようなエネルギーがまだありあり、在ります🌼

後始末を教えるヨーガかあ〜
そう、わたしの先生の成瀬先生はポツリと、実技で仰るのです
「やりっぱなしはダメですね〜」
と。

あゝ、ある意味で一歩進んだ後始末へ到達できます!
合掌、合掌、また合掌🙏

会館さん、聞き入れてくださり、感謝します。

おやすみなさい。


21.06.24

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 会員のS.Aさんからある通信の紹介をいただき、記事を読ませていただく機会がありました。🙏
記事は沖縄の牧師さんが書いた通信でした。
また、泉の森会館の二階では、いつもさまざまな文化活動の発信や発表がされますが、今日は現在展示している作品をポストカードにしたものをいただきました。

きっと感じることがあり、伝えたいと思われたのだと思います。
紹介は、少し勇気が要りますが、経験するよろこびを共に分け合おうという、素敵な心だと思います。

感じるというのは、受信者と発信者との間に起こる伝導の力ですね。
たったひとりにかもしれませんが、発信されるエネルギーが太陽光線のような一筋の力になって発芽します。
何にでもかんにでも発信することはできません。
発信は強いエネルギーではありますが、歴然からの祈りに近い力で、発信者自身ももらって受けたもので、発信者のみの力ではないものだからです。

 果実はサットヴァな食べ物です。生でいただける生きて私たちの中で力となります。
果実もまたたいへん栄養価のみならず、バランスのとれたものですが、多くのエネルギーを受けてそうなりましたから。

 仏教語の「果」がありますが、サンスクリット語(梵語)ではパラ(phala)で「果実、果報、結果、報い、享受」。
結果を求めて事をなすなら、その結果は業(カルマ)です。
果実はただ道(修行)を成したものが、修行中の果報を受けて、その後でやってくるものです。
遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 かな(笑)

果実はきっと、果実の気持ちを代弁するなら、名色(名のあるものや形あるもの)が生じても気づかないほどの喜びという集中状態で、たわわと実っているのでしょう!
修行の「果」も同様に、向こうからやってくるもので、求めた結果ではありません。

 集中されて描かれた作品や、文章を読むと、澄んでいる。
力、影響力(高まりや向上へのきっかけ)をいただきます!

photo: 今年も万能薬の梅干し作りが始まりました!かわいい梅の果実は今年も頭を垂れて実りをつけてくれました。水洗いするときがルビー♪に輝く瞬間です。

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21.06.23

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ऋषिकेश Rishikesh

ऋषिकेश Rishikesh


シヴァーナンダ ・アーシュラムの夕刻。
「こんなに美しくやわらかな時間…こういう時間が本当にあるんだなあ〜」
「この数日は一体なんなんだろう…」数年間、毎年リシケーシでいく日かを過ごしましたが、訪れるたびに夕刻にはいつもそう思ったものでした。
もう一つ、リシケーシで過ごすと不思議な現象が起こります。それは身体がとにかくぐにゃぐにゃに。柔らか現象が起きます。
人は安らぎが続くとこうなるんだな〜。赤ん坊がそうだなあ〜と妙に納得したものでした。
こうして当時の場面を思い出すだけで柔らかくなりそうです(笑)。不思議です。

景色が美しいか・・・いえ、目を開ければ決してそれありません。
見れば路地は狭く、泥水なのか汚水なのか、コンクリートの隙間から流れています。
やわらかな時間・・・うーむ、これもどう見てもそうじゃないですね。
ぶつからないで行き来するのが難しいほど人、人。ルールなく喋りながらあっちこっち。言葉は幾人も超えて頭の上を交わされていく。
けたたましいクラクションの響きの中でどうして柔らかだと感じるのかしら?
準備され整ったウェルカムと包んでくれるホテルの一室ではないし、
静けさと荘厳な寺や神社の中でももちろんありません。

どんな音も光景も超えさせる力に引っ張られるみたい。

これが最初から整っているところだったらその変化に気づいただろうかとも思います。
こうして、日常がすざましくて、喧騒で、問題だらけだから ある一つの開かられているところに引っ張られるのだと感じます。

ヨーガが日常で生きてきた理由だと感じるのでした。

今日は美しい月ですね。
頑張ってる、踏ん張っている方ほど、その光の美しさや壮大なやわらぎにに引き寄せられるのではないでしょうか。

こちらは、アーシュラムの部屋。これは2019年の最近の部屋で、昔に比べるととってもきれいで広い。これは夕方。
ベッドと毛布一枚(この時期は毛布でもない、ただの布)、小さな机とトイレと洗面器があるだけの簡素な部屋。
きれいに見えますが、掃除は自分でマメにしていました(笑)。
浴室やトイレは水浸しになりますが、バスマットなどがないので、普通は部屋の床が水で濡れた足跡が付いたりして、外靴で過ごす人も多いと思う。
私は裸足で過ごしたいので、いつも自分が移動すれば雑巾で拭いたり掃いたりしていました。
共同で使う掃除道具があります。
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21.06.20

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 常に、常に…湧き立つように、震える振動のように感じること。
「伝承(伝統)」に関してー。

 国際YOGA DAYで高野山からのライブ中継がありました。多くの人が日本の聖地高野山の景観、その気配、また行われる対談やヨーガをご覧になったと思います。
自分にとって、思いを留めてみる良い機会なので「伝承(伝統)」に関して書いておこうと思います。
 日本人だからというひいき目はなく、日本はほんとうに素晴らしく美しい、神の生きる国、生きて存続する聖なる地を持つ国だと思って誇っています。
高野山や伊勢神宮などにある実在を崇拝します。現在も生きて継承される生命への礼拝が今も毎朝あるのですから、日に一度の食事が早朝に運ばれ、今もそこで瞑想を続けているバガヴァーンが居られます。
地球レベルという視野に広げて見ても、このような生きた杜がある日本のような国は他にあるでしょうか?
パルテノン神殿にはありません。遺跡は世界中にありますが、生きていません。空っぽの保存です。
インド、ヒマラヤ自体が聖地と言われますが……
 数珠の聖典『バガヴァッド・ギーター』も人間に与えられた祭祀のための行為と知識に関してこう悟りを告げています。
「不滅のヨーガをまず太陽神に説いたが、久しい時を経て伝承はしだいに失われた」と。
そして、神の化身として現れているクリシュナは、世界の維持のために最高の秘説である古(いにしえ)の智慧のヨーガを、いまあなた(熱意ある者であり、友であり、息子であり、自分自身であるあなた)にだけ教えようと告げます。(こうして語られて伝えられている会話がヨーガの教典でもある『バガヴァッド・ギーター』です。)

 伝承される崇拝が今も生きていると証明できるのは、それは実在です。観念論ではありません。実在論です。
継承は<信じる><真似る>だけでもなんとか伝わるかもしれませんが、やはりいずれ変化するのではないでしょうか。
実際が実在する振動するような点の連続によってのみ、真の伝承は起こり得ないと。
共に同じ経験が連続するということは<信じる>も<真似る>も超えていくものだろうと。

日々の行為の瞬間、瞬間に生きていなくてはなりません。
つなぐとか結合という意味だとよく説明される「ヨーガ」の字義ですが、字義的に学術的に説明すると、ヨーガの言葉自体にはその意味はなく、
馬と馬車を、あるいは牛と牛車をつなぐくびき(つなぐ道具)がヨーガであると説明されるのです。
すると、こっちとそっちを繋ぐという意味という解釈ではなくて、
こっちとそっちを繋ぎたいのだという強い意志によって工夫をしてもたらされるもの、それがヨーガだと、こういうことになるのが本当の説明になると思います。
この説明は、私は先生(成瀬貴良先生)からしつこいほどに説明を受けたので、はじめははっきり違いがわからなかったけれど、あまりに説明されるのでよほど何か大事な意味があるのだろうと調べ直して(東洋哲学、宗教学者、博士、文学者、ヨーギーの佐保田鶴治博士の講話集や著書などから)はっきりわかったことです。ヨーガという言葉の意味が繋ぐ、結合と単に言っていいのだろうかと、大きく異なる意味になるという考えを持ちます。
ちなみに、ヨガというのも、ヨガというのは字義的、学術的にみるとあり得ません。梵語の「O」は長音でヨーガというルビになるはずです。もちろん、発音上はどちらでも良いですが、書くときはヨーガとなります。

 伝統に話を戻すと、何を伝えているのかと関心を持ち、心を寄せ、愛おしいほどに渇望した時、その伝承を意味するところが聞こえてくるのでしょう。
強い寄り合いの心が必要ですし、また、そのための筋道だった礼節(儀礼)は熱意を示す礼儀であり、揺るぎない決意の現れでもあり、実直さや誠実さを示すものとして正しく対面されるべき日々の行為です。
 日々のヨーガは行為でもあります。また導きたいと強く寄り合うための道具なのですから、日々の【サーダナ(修行、修習、到達)】にこそなのです。
 個人的ではありますが、ヨーガ・サーダナには生きた振動が常々与えられます。実直に、正確に、それでいて素直にまっすぐと向かう時、震える振動の伝承は生きて与えられるのではないでしょうか。かつてから、古代のヨーガ行者はその伝承を日々のサーダナに感じて、日々連続することなので、終わりのない、常に幸せを与えられるからこそ尽くす修行をしたのでしょう。
 サーダナにこそ「伝承」という実感が生きています。が、それを選ぶ(する)かは人に任されています。だから人間なのでしょう。

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2021.06.20