コントロールとは具合よく調整することでもありますが、どちらかというと統制、管理といった支配的要素が強いように感じます。プラクティスは、前者に向けて繰り返し、繰り返し練習をするという意味で、最近よくつかわれているのかもしれません。また、「癖を付けなくちゃ」「習慣にしなくちゃ」といった声もよくよく聞きます。
インドで発祥したヨーガはアメリカナイズ、エクササイズ化され、インドへ行っても、西洋人の先生が教えている光景をみたりします。逆輸入です。そのような今日、ヨーガで使われやすくなったこれらの言葉に注目して書きたいと思います。
コントロールは英語です。コントロールに相当する言語はインドにはありません。したがってヨーガにも無いわけですが、代わりに「修練。修行。達成。目標に導く」意味のサーダナという言葉があります。
また、少し意味合いは離れるかもしれませんが、「熏習」ヴァーサナーがあります。後者は残像されている印象がある何らかの機会によって記憶として蘇ってくるという意味と、何も匂いがなかった衣服に香の香りを付けていくとしだいに香の香りを放つようになるように、ある行動や言葉や考えを繰り返していくことによって、徐々にその人の心の中に習慣性が染みこんでいくという意味があります。
ヨーガは双方を包括した全体性のうちに双方の能力を存分に生かし合うことへの調整の手助けをするきっかけに気づかせてくれる行です。だからヨーガによってコントロールできるようになるのでは?と思われるかもしれませんが、最後がまったく正反対に違います。
双方の能力を生かすとき、双方のことをよく理解したから「(調整)する」のがコントロールに対し、ヨーガは双方をよく理解したから「(調整)しない」のです。双方の能力がまだ出ていない段階であれば、それぞれの能力がまず回復するよう、余計なものを除く引き算をします。何か加えたり足したり補正したりして治療することは何もありません。余計な不自然性の異物を排除することで、あるがままの本質の能力が出てくるという考え方です。
ヨーガ実習でわたくしが口癖のように言う コトノハ のひとつがあります。
「[する]を[しない]のがヨーガ…」
リーフ(葉)のように言葉はふかれて風のように去ってしまうのものです。あまり印象にないかもしれません。ヨーガというのは、相互のバランスを感じ合うものですから、何か特別な行為をすることは、すべて何かを誕生させてしまいますから、そのような心さえも抱かずに、ただただ、今の行為を見ているのです。みていることは続いています。
運動と体操とヨーガのちがいを補足します。(養成コーステキストより)
運動は体を動かし運搬することです。動きは必ずしも一定の形式やシステムに基づく必要はありません。動くことに伴う発汗など、エネルギーの発散が健康に良いと期待されるもので運動機能を高めることが主な目的です。随意運動は大変日常的なもので、生活環境・範囲により運動機能は変化します。
体操は意識的に体を一定形式、システムに基づいて操りコントロールすること。筋肉や関節を主として身体を整えることが目的。体操は自らの意思によって、身体を操るため全ての動きは意識的であって、無意識的な操作は基本的にはない。体操は運動の領域に含まれる。
これらに対してヨーガとは、動きそのものよりもある一定の間じっと静止している状態のときがヨーガである部分ともいえます。ある特定の環境内で身体内部の変化を待つことにねらいがあります。特定の体位でじっと静止することによって、わたしたちの能力である自然力がはたらき、環境になじもうと身体内ははたらきます。そして、また戻ると、改めて日常の流れを起こし、つまり再復興する。循環機能や肉体のみならずそれに気づく精神性にまで、本能が引き出される期待は拡がります。動きそのものは目的に至るまでのプロセスであり、直接のヨーガではない。むしろヨーガの目的は静止している時に、或いは終えた後にあります。
ヨーガ行者や聖者、尊者をスヴァーミー、あるいは「〜さま」の意味のジーを付けてスヴァーミージーと呼ばれます。僧侶です。出家され、何も持ちません。日本と違って家族も妻ももちません。聖地の寺院や道場にいくと、こういった方々にお会いすることができます。スヴァーミージーと呼ばれる方々がみんなヨーガ(私たちが想像する身体を動かしポーズをするヨーガです)をするかというと、しません。ヨーガのポーズをするのは、日々の努めを全うする手段として実践されている僧侶は日本のお坊さんらと比較すれば、多くいるかもしれませんが、全くされない僧侶もおられます。それでもヨーガの道ゆくスヴァーミーです。
つまり、いわゆる訓練している人は違うとか、プラクティスはたいせつだといいますが、前述の話をインドではなく日本で暮らす私たちの日常に当てはめて理解しなおしてみましょう。自分の欲望や目指したい名誉や財産のためという自己の行為とせずに日々の役割に全うし、ご縁で繋がった支えあう家族を養い、跡を継いで往く者が苦しまぬように捧げ残す、奉納できるよう尽力され努めるなら、そこに香は薫り、訓練しなくても、プラクティスしなくても、しているのと同じ生活になっているということでしょう。目に見える形を追うことばかりではないということです。己という個人の枠を超えて、双方や、双方を含む全体の歓びのためにはたらけたのなら、立派なヨーガ行者でありましょう。
どうぞ、自己のコントロールではなく、他者とのバランスのために理解をふかめられ、結果としてもしコントロールできるようになったとわかっても、コントロールするのではなく、そうなることを待ってみる生活をしませんか?
そう、少年たちは夢を希望に、無心にバッドを振るのであった…
今日は何回ふったからコーチに褒められるかなとか、だいぶ腕っ節も太くなって、気になる子にふりむいてもらえるかなあ〜なーんて、ちょっとは思いながらも打ち払っているのだろうヽ(´ー`)ノ
Hari Om tat sat
Tryambakam Yoga Center
「ヨーガなんですか?」
「ヨガではなくヨーガですか?」
と聞かれることがあります。
すぐに応えることができます。正解はヨーガです。
先日も、オーガニックライフ東京というイベントの中で成瀬貴良先生はこの「ヨーガと書くのが正しいです」と話しをされていました。随所で語られ、何度も語られ、それでも語られますので、きっとどうでもよいことではない…ということなのではないでしょうか。
ヨーガを実践していくと、深く知りたいと思うことが出てきています。いま、街にはヨーガに関する本や雑誌はたくさん売られていますし、本屋に行かなくてもインターネットで情報を検索することができます。しかし読んでみるとどれもいまひとつ断片的で統一感がなく、まさに垣根の隙間から垣間見ているだけのような気がします。
ヨーガ実習を終えた時の爽快感や充実感に比べるとずいぶん平ったく感じます。ですから私たちY.L.S.(ザ・ヨーガ・ライフ・ソサエティ)はヨーガを深く理解するために定期的に勉強会をしています。実際に成瀬貴良先生の著書である『インドの叡智』や『ヨーガ事典』は、1987年に松戸で初まったヨーガ・サンガティという勉強会の資料をまとめたものなのです。以来先生はヨーガ・サンガティを継続されるわけですが、実践と哲学をひとつにしたものでヨーガを理解し伝えていらしているように、わたしたちも同じようにしようと考えます。身近にお手本があるからです。
勉強はヨーガの用語の意味を調べることにはじまり、言葉が生まれたインドという国土、民族、歴史、ヨーガの起源、時代背景と勉強の枠に限りがありません。また、考えてみますと、私たちが実践するヨーガ実習は、背景があって生まれた結論的テクニックであり、古代の先人が実体験を通じて後世へと残してくれた産物です。それらについて今さら工夫したりすることは無意味にも感じます。現代の私たちには到底、不可能ではないかしらと感じる微細な感覚や繊細で正確な記憶と記録です。長く脈々とした伝統というのは、先人を尊敬し、讃える行為ともいえます。
そうした作業、学習、理解の日々によってヨーガと触れ合っていますと、わたしたちはどうも「ヨガ」とは使えないのです。
さて、「ヨーガ」と「ヨガ」。なぜヨガが誤った記述かということですが、発声される音を耳で聞く分にはヨーガでもヨガでもよい気がします。その意味が変わることはありません。
しかし前述したように、ヨーガの伝統とは繊細であり極めて正確なものでした。細かいところが大切なのです。「だいたいそんな感じ」では、悩みを増やしてしまったのでしょう。父から息子へ語り継ぐように、師から弟子へ、波長を同じにした者が語り継ぎ伝承されてきました。
時代が下がると、広く人々へ伝える教典が残されました。文字にされたのです。
教典は「サンスクリット」語という古代インドの言語で書かれました。サンスクリット語は日本や中国では「梵語」と呼ばれる、伝説ではブラフマー神(梵天)によって作られたという伝説があります。また「完成された言語」という意味です。
音を文字として記述するときにヨガという記述はサンスクリット語には存在しません。
サンスクリット語を訳すとき、発音に沿ってつくられたローマナイズというある一定の規則で書かれるつくられた文字があります。ローマ字の上や下に「ー」や「・」「~」を付けてサンスクリット語に近い音を表記しています。
ヨーガは「yoga」と書きます。「o」は「オー」と発音される長母音です。「オ」という音はありません。したがってどうしたって「yoga」と書いてあれば「ヨーガ」となります。「ヨガ」は表記上存在しませんし、音としてもサンスクリット語にはありません。
お分かりいただけたでしょうか。
ヨーガのポーズで腕や手はカラダのどこに添えるとか、このポーズの時はどこを見るとか、足の角度はどうだとか、ずいぶん細かなことまで教えてくれる先生がいらっしゃいます。きっと大切なのでしょう。それを一所懸命にメモする若い方々もみられます。熱心です。
細かいことがたいせつになってくるのは、実践していくと壁にぶちあたるからです。すぐに解決しないから教典があり、伝承があったわけです。細かいことは角度をかえれば済むようなことではありません。
ヨーガの指導者でありながら、根幹であるハタ・ヨーガの教典すら読んだことのないインストラクターも多くいるようです。ちなみに、わたくしも当初はそうした一人でしたが。根幹を学ぶといっても、前述のようにY.L.S.でこうして定期的に行ってもおわらず、むしろ限りなくひろがっていくヨーガの深さです。すぐに理解できるわけはありません。経験豊かな指導者に恵まれたなら、数ヶ月、数年間の継続した実践とともに理解する時間が必要です。たいへんなことです。システム的なヨーガが増えているように思います。開催される数回の講座やワークショップなどで聞いたことを受け、個人が感じるままに工夫し研究したテクニックをされている、伝統とはまったく逆の、方向転換のような気がします。
微細な音も含めてヨーガでありますので補足です。
ヨーガをする人をyogI「ヨーギー」と言います。男性のヨーガ行者のことで、ヨーギではありません。女性は yoginI ヨギニーでもヨギーニでもありません。yoginI「ヨーギニー」です。
わたしたちY.L.S.では、ヨーガという学問と誠実に向き合って勉強しながら実践もしているので、普段から発声音でも、記述でも「ヨーガ」と使います。
しかし、「ヨーガ」を使っている団体だから正しくて、ヨガを使っている団体は正しくないということに通じているわけではないことを補足させていただきます。「ヨガ」と使っていても伝統ある姿勢でヨーガを伝え広める活動をされているグループもたくさんあります。「ヨーガ」と使っていても、まったく理解されていない場合もあります。
ちなみにオーム真理教は「ヨーガ」と使っていました。
また、ヨーガの実践者であり東洋哲学者で博士号の称号をお持ちになられている佐保田鶴治先生は、かならず「ヨーガ」と書かれます。
沖先生も深くヨーガに精通され、ヨーガを広める活動にご貢献された先生ですが、「ヨガ」と書かれます。成瀬貴良先生のお話ですと、沖先生は佐保田先生のような学問からヨーガに入ったのではなく、直接インドで修行され学ばれてきた先生なので、耳で聞いたままに書かれたのでしょう。と。確かにインド人はヨーガと言っているのかヨガと言っているのか、発音を聞いた限りではわかりません。
この話を聞いて、みなさまの印象が{とちおとめスムージー}と{のいちごスムージー}をどちらにするか悩むようにお選び使い分けくださいませ。
Hari Om tat sat
Tryambakam Yoga Center
【日曜日はサット・サンガ】
とき:
5月11日 日曜日
1400−1520 ハタ・ヨーガ実習
1530−1630 ヨーガのお話
ー・ー・ー・ー・ー・
ハタ・ヨーガ実習
実習は無料です。初めてヨーガを実習される方や、見学されたい方、交感したい方お待ちしております。
お気軽にどうぞ。
ヨーガのお話
11日の内容はまだ決まっていません。
その時、いらした方との印象で、教典に沿ったおはなしをさせていただきます。
{ヨーガとヨガ}についてはどうでしょうか?
5月7日(水)
18:00-19:20 夕べのヨーガ 早野智子講師→石原純子指導員
19:30-21:00 夜ヨーガ 早野智子講師→石原純子指導員
よろしくお願いします。