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ー出来事編ー支援活動の観想(toko)

2011.05.06

Category { サット・サンガ }
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2011.4.13.ポストカード日本
盛岡から岩泉へ車で約2時間の旅。
窓越しの景色が美しく厳しい。隙のない美しさ。
岩泉は日本で一番の寒さを記録する地域。雪が多く、木々が倒れている。オノオレカンバという樺の木は斧が折れる程硬いところからその名がついているという。ぐ〜んとしなって撓んでいる。夏になるとピ〜ンと真っ直ぐにもどるのだろうか。いずれにしても、弱い樹木が冬毎に自然の力によって伐採される姿を見た。

その夜は、もの凄い春一番が吹き荒れた。
聞いたところ、岩泉町の地形柄毎年かなり強く吹くとのこと。
「それにしたって、昨夜のは凄かった。ここ数年あんな風はないですよ。」と、局長さん(岩泉郵便局長さんをされている親戚の重徳さん)。
翌朝、冬の雪から、今度は春の風によって押し倒されている木々や草木。つかの間であった桜の花の儚さを見た。(人の作るキャンプ装備のモロさも見た。)

海を見た。どこまでも静かで青く続いていた。なんて大きくみごとないのちの海。まさに生命を宿す偉大な母のよう。穏やかで強く、やさしい。

はっとした。岩泉の龍泉洞の地底湖が濁ったという。絶対に濁ることのない世界一の透明度を誇る龍泉洞の地底湖が濁ったのだ。心が少しさみしくなった。
…にごってしまった。地の奥底の水が、濁ってしまった。

言葉が響いてきた。

「屋根を粗雑に葺いてある家には雨が漏れ入るように、心を修養しないならば、情欲が心に侵入する。」
「屋根をよく葺いてある家には、雨の漏れ入ることがないように、心を修養してあるならば、情欲の侵入することが無い。」
今、『心』を、まるで子供を育てるように修養しなくては!ほったらかしていたら、雨漏りがして濁ってしまう・・・龍泉洞の濁った乳白青色に観想した。

「・・・この世のものを浄らかだと思って暮らし(自分の身体が自分のものだと思って美しくよくありたいと願っている)、眼・耳・鼻・口・皮膚といった感覚器官を制御できずに(見聞きしたことを自分のものとしようとして)、食事の節度を知らず欲望の思うままに(手に入りやすい欲望から満たそうとする)、怠けて勤めないと、弱い樹木が風に倒されるように、打ちひしがれてしまうだろう。」岩泉の倒木とリンクした。

「・・この世のものは不浄だと思って暮らして(儚い移り変わる不浄なものと理解して)、感覚器官をよく制御して(気づきに満ちて理解し)、食事の節度をしり、信念があって、勤め励むなら、岩山が風にゆるがないように、(あるいはオノオレカンバのように)打ちひしがれないだろう」。三陸の岩山とリンクした。

海の波は海の一部で、波は海でいないことを知るように、揺れ動く心の波をよく修養しよう…
鳥の鳴き声のように、泡沫のようなこの我が身と知り、かげろうのような儚い本性のものであると悟ろう…本当を、真実を見つめ受け入れる第三の眼(トリャンバカム)を開く時がいている。三陸の海や龍泉洞の濁った地底湖がリンクする。

花摘に夢中になっていては、死がさらっていく
眠っている村を洪水が押し流していくように…

津波によって全てを失った人々。それを知る人。知る?本当に知っているのかな?テレビや情報、言葉のやりとり、頭での理解で知った事になるのだろうか?
1000年に一度といわれる歴史の最中にある人類のうち、どれくらいの人々が、本当に「今」という時代を体験したのだろうか。

今に「在る」。
この時代に生まれた我々が「生きること」を実体験しようとするなら、それは、「今」を理解することなのか。
理解は真理を見出していくだろう。・・・いえ、或いは見出せない事実と向き合うかもしれない。いずれにしても「在る」ことを理解し、実体験することが大事。「生きること」への理解が大事。見聞きすることでは生きていない。ここに「在る」ではない。

そんな思いが私の中にたゆたう今です…理解に向かっているような、いないような…

黙々と復興作業をする人々、できない人々…
おそらく生きていられるあと数十年の間には、かつて当たり前だった毎年の、親戚一同集まって、ご馳走を囲む日はやってはこないだろうと覚悟している人、それに気付き、共に歩む人、何とかしようと動く人、気づかぬ人、ねむる人。いろんなところどころでの環境と、人の心。
黙々と、ただただドロを洗い、洗う。また翌日も洗う、洗いを続ける人。
黙々と、ただただドロを掻き出し、掻き出す。また翌日も掻き出す、掻き出しを続ける人。
黙々と、ただただ瓦礫を運び、運ぶ。また翌日も運ぶ、運び続ける人。

「な〜んにもやる気がしないんだあ」「少し静かにして欲しい」
「あたしんところにはだ〜れも見舞いにもきてくれないんだ」
「あたしたち、ぜ〜んぶないんだ。足りないよ。少しだけくれてもね…みんなの分くれないかなあ」

全ての人々が一日のおしまいにふう〜と息を吐き出し、眼を閉じて、その先の最後で静かに微笑むことがでいたらどんなに平和なことでしょうか。
平和でありますように。
理解が平和を包みますように。
真理の眼が育まれますように。

Hari Om tat sat..

toko..

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