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13.12.25

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12・2014年1月スケジュール

12・2014年1月スケジュール


今週は今年最後のレッスンです。
2013年、ヨーガを継続され、継続が私たちの力となり、育まれた1年でした。
ありがとうございました。

さて、来年は、5日㈰から開講しております。
振替レッスンも可能です。チェックください。
みなさまお揃いでの穏やかな年の瀬でありますように。
善き新年のはじまりをお迎えされてくださいませ。
穏やかでありますように!
安らぎにつつまれますように!
平等と共感の心で、微笑みの力が拡がりますように!


13.12.24

Category { サット・サンガ }
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本の紹介『シヴァーナンダ・ヨーガ』では、わたしたちをいつもあたたかく導きくださる成瀬貴良先生著、『シヴァーナンダ・ヨーガ』(善本社)の本文全てをそのままタイプしお伝えしております。 月2回、8日と24日に配信。 著者よりご許可をいただいての配信。 多くの方の目に触れ、心に触れ、奉仕慈愛の心「SERVE」「LOVE」「GIVE」からはじまる愛のヨーガがひろまりますように!
今回は15章 エゴの道〈エゴがなくなるのは神の恩恵〉〈自分は利己的であるということの認識〉〈概念と真実を見極める〉をお伝えします。

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エゴがなくなるのは神の恩恵
わたしたちはバクティ・ヨーガを行うことができると思っています。実際、寺院に行って1日中*プージャーを行うこともあります。しかし、それもまたエゴによるものです。
また、わたしたちは瞑想をしますが、それもまたエゴが行うものです。
では、このエゴをなくすことなどできるのでしょうか。
答えは「イエス」。神の恩恵がそうです。
では、どのようにしたら神の恩恵が得られるのでしょうか。
それは、出発点に戻ることです。それによって神の恩恵は得られるのです。神の恩恵は、神からの贈り物です。神にえこひいきや不公平はありません。神はあなたの善いところや悪いところを見て、報酬を与えるわけではありません。神からの贈り物というのは、そういう行為とは全く関係ないのです。
『ヴバガヴァッド・ギーター』の中で、クリシュナも語っています。

純粋な思いやりによって、わたしは信奉者に知恵を与えよう。それは、思いやりと同情からであって、それを受けるにふさわしい行為をしたからではない。

そうすると、あなたはきっとこう言うのではないでしょうか。
「わかりました。それでは、どうぞ神様、あなたの思いやりでわたくしに恩恵をお与えください。わたしは何もしませんから」と。
何かをしようがしまいが、エゴはいつでも生じて、そのエゴの意思で何かを行います。エゴをなくそうとしていることの中にさえも、エゴはあるのです。
グルのもとに行き、信愛をささげ、心を込めて奉仕しているときでさえ、エゴは生じます。心の奥にはおそらく、立派なグルを得て「あなたのようになりたい」と言ったことを歓んでいる自分があるのではないでしょうか。このように思うこともまたエゴなのです。

神(アートマンあるいはブラフマンといってもかまいません)は、あらゆるところに偏在しています。それを実現するのに難しさなどまったくありません。
なぜならば、それが真実であり、現実だからです。

『ヨーガ・ヴァシシュタ』や他の聖典の中に、自己実現は手のひらの中にある花を探り潰してしまうよりもずっと簡単である、と説かれています。花を潰すにはこぶしを握るだけで十分ですが、神を実現するには、こぶしを握る必要さえないのです。
このことを、スヴァーミー・クリシュナーナンダは「わたしたちはただ精神的眠りに陥っているにすぎないのです」と表現しました。
この世の中のこと、不幸や悲惨、悲しみや罪というのは、夢の中だけのことなのです。わたしたちは「無智」という深い夢の中にいます。そして、この夢の中の経験を「悲しみと罪の世界」と呼んでいるのです。
では、どうすればこの夢を終わらせることができるのでしょうか。
そう、眠りから覚めれば夢は終わるのです。しかし、どうすれば自分自身で目を覚ますことができるのでしょうか。
神とは何かを、どのようにして知り、崇拝し、その存在を感じるのでしょうか。人は、眠っている自分を、どのようにして目覚めさせたらよいのでしょうか。

エゴの戯れは、生活のすべてに浸透しています。わたしたちが行ったすべてのことは―それが神聖なことであっても世俗的なことであっても―エゴによってなされたものです。明らかに利己的でないと思われるような行為でも、エゴの働きによって穢されているものです。
わたしたちはしかし、「これはエゴだ。そこにはエゴによる強い動機や目的がある。以前ほどではないが、わたしはエゴが強い」などと観察し、エゴの働きを見抜くことはできるはずです。
「わたしはかつてほど利己的ではなくなりました。少なくとも、ほかの人たちほどではないと思います。しかし、わたしにもまだ強いエゴがあります。寺院で神を礼拝しても、むなしい気持ちになることがあります。また、いつも瞑想で3時間坐っていますが、そのことをとても誇りに思います。わたしには学問がありますので、感覚的な欲望に執着することはありません。そして、そのことをとても幸せだと思っています」というように。これらはすべて同じエゴの働きです。
やがて、わたしたちの奥深くにある「智」はこのことに気づき、この問題を解決できないために苦悩が生じ、血の涙を流すのです。
あなたの心は泣き叫ぶことでしょう。
「神よ、わたしはいったい、どうすればよいのでしょうか?私にはエゴを取り除くことも,なくすこともできません!」

自分は利己的であるということの認識
このような状態になったとき、きっとあなたは、サット・サンガの価値や、グルへの奉仕の本当の意味を知ることができるでしょう。
何の動機も目的も持たずグルに奉仕しなさい。そして、どんなときでも、自分は利己的であるという単純な真実を自覚していてください。できる限りはっきりと観察していてください。
インドに、「チャータカ鳥の諺」というものがあります。チャータカ鳥は、雨水しか飲まないといわれているのです。しかも、どんな雨でもよいというわけではなく、ある吉祥の日に空から降ってくる雨しか飲まないのです。そのほかは、ただ、吉祥の日に空から降ってくる雨を、口を開けて待っているのです。
このチャータカ鳥と同じように、あなたもここに来て、サット・サンガに加わりなさい。そしてある日、吉祥の日に降る雨を飲むように、グルや神の素晴らしい恩恵によって飛躍し、エゴのスイッチを切り、悟りのスイッチを入れるのです。
身体が生きているかぎり、身体の中で心が動いているかぎり、エゴや性格も生き続け、働き続けます。しかし、このエゴや性格は永遠でもなければ、疑う余地もないほど現実的なものというわけでもありません。一時的な現象にしかすぎないのです。エゴや性格に永遠性を与えることは、無知な人がすることです。エゴの現実性を高めているのは無知だからです。エゴは概念だけなのです。
「エゴは全くなくなりました」というふりをする必要はありませんが、「実際にはある」と主張するのも愚かで無知なことです。

概念と真実を見極める
グルデーヴは、概念は概念としてだけ見ていて、真実あるいは現実とは見なすことはありませんでした。例えば、グルデーヴには〝スヴァーミー・シヴァーナンダ″という名前がありましたが、グルデーヴはその名前が有名になったり、多くの人に語られたりするのを否定するということはありませんでした。
しかし、その名前が自分の持っている精神的な本質と結びつくことを許しませんでした。同様に、グルデーヴが称讃や非難を受けるとき、その事実と名前や概念との関係をしっかりと識別されていました。その賞賛や非難が事実以上のものになってはいないか、自分の精神的本質や真実と関係してはいないかどうかなど。
わたしは、これに関する3つの出来事を思い出します。

1つは、アーシュラムで開かれた世界宗教会議で起こったことでした。あるスヴァーミーが、スピーチをする時間がほしいと要求したのです。そのとき、この会を組織していた人たちは反対をしましたが、それを抑えて、そのスヴァーミーに時間を与えたのはグルデーヴご自身でした。男は語りはじめました。しかし、その内容は宗教に関するものではなく、グルデーヴを批判するものでした。北インドではヒンディー語が使われているのに、グルデーヴはなぜ、英語で話をしたり本を書いたりしているのか、ということでした。
彼の話を聞いているグルデーヴの表情には、しっかりとその内容に注意を払っているという表情と、それを楽しんでいるという表情が入り混じっていました。
グルデーヴはそのスヴァーミーが語る真実だけをノートに記していました。しかし、〝スヴァーミー・シヴァーナンダ″個人に対する批判は取り上げませんでした。なぜならば、〝スヴァーミー・シヴァーナンダ″というのは真実と一致しない、さしあたっての機能的な名前にしかすぎないと考えていたからです。

高い僧職にある女性がアーシュラムを訪れ、アーシュラムで出しているグルデーヴの自叙伝の内容に鋭い批判を浴びせました。このときも、グルデーヴは同じように、顔を喜びでいっぱいに輝かせながら、彼女の言うことを注意深く聞くと、答えられました。
「分かりました。それがあなたをここに来させた理由なのでしょう」
彼女はグルデーヴに自叙伝の内容を改めさせるために来たのですが、グルデーヴと話をしているうちに、グルデーヴの性格を批判したり改めさせることなどまったく時間の浪費であるし、彼女が間違っていると非難した事柄も、実際には存在しないということを悟ったのです。

これはグルデーヴご自身の弟子のひとりですが、アーシュラムの食事の内容がアンバランスで健康的でないと、グルデーヴを批判したことがありました。グルデーヴはその弟子の言うことを注意深く忍耐強く聞かれ、アーシュラムの食事担当者に、特別に彼のための食事を作ってあげるよう指示されました。

個人的な所見や評言は真実とは関係ありません。グルデーヴは、ご自身が非難されたときでも、動転することなど一切ありませんでした。反対に、だれかがスヴァーミー・シヴァーナンダの栄光をたたえても、決して得意になることはありませんでした。スヴァーミー・シヴァーナンダは機能的な名前にしかすぎないからです。しかし、それら非難と称讃の裏に隠された真実を、決して見落とすことはありませんでした。
概念を概念としてとらえ、名前を名前としてとらえることが大切です。それができるようになったとき、概念や名前などに関係なく物事の真実を理解できるようになるのです。

*プージャー:「供養、供儀、礼拝」。神やグルなど神聖なものの前にローソクなどの火を灯し、供物を捧げ、マントラを唱える。インド社会の中では、個人で行う簡単なものから、大掛かりなプージャ―まで頻繁に行われる。

コメント:日常で起きる些細な問題から時々訪れる大きな問題まで実にたくさんの問題がやってきます。シヴァーナンダさんは顔を喜びでいっぱいに輝かせながら!!その問題に対処されていたとありました。不思議な光景だと感じながらもそのお顔を想像するだけで私まで顔がほころんでしまいました^^。自分自身に訪れる問題をどのようにとらえるかによってどのように対処するのかが変わります。今回の章にありました〝概念と真実を見極める″ことがポイントなのでしょう。わたしたちがこれから出会うであろう新たな問題にも正しく見極め、対処してゆきたいものです。まずは自分自身の小さく狭いエゴから抜け出さなくてはなりません…日々のヨーガの実践がますます大切に感じ、そしてみなさんと共に学べる場があることがありがたいな~と感じる今日であります。OM

コメント:感覚、感情に揺さぶられることなく、「私」という思いを弱めてそのものの本質を見つめることができるよう注意深く聞く・見る・話すことを訓練していかなくてはなりません。日々、うっかり…ということが多く、どんなに軽率に行為しているかということに気付かされます。このことに気を付けて行為することは、場面場面が修錬の場であることのように思います。感情に流されてしまうから、忘れてしまうから、こうして聖なる声に触れることが必要なのですね。サット・サンガや聖典の学習、キールタンを休まず行いなさいとおっしゃった意味はここにあるようです。「行なってみる」ことで体験しましょう。

本の販売をしています。ご希望の方はスタッフへお声掛けください。

本の販売をしています。ご希望の方はスタッフへお声掛けください。


13.12.17

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本日12月17日の{朝に}ハタ・ヨーガクラスは、幼稚園ママ長又先生→森島先生です。


13.12.12

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R0011870
今年も最後の月、師走。
12月のサット・サンガ{Heart of YOGA}は15日です。
下記の内容で開催いたしますので、ぜひお出かけください。

好きなプログラムにお越しいただけます。
通じて「サット・サンガ」としています。

日常が粗雑になっていませんか
忙しさ重なる日々を整えましょう!

一時一時を回復させる善き日
その時間はすべてへの贈りもの
あらゆるバランスが回復し整います。

****
日時:12月15日㈰
場所:喜多見地区会館
プログラム:
1000−1145 *教典に学ぶ『バガヴァッド・ギーター 18章』
1200−1300 {Heart of YOGA}
1300−1330 Tea Time
1340−1440 *ヨーガ実習{a drop of nectar
      皆様の甘露となることを祈、ひとつのアドヴァイスを伝達してゆきます。
1440-1500 質疑応答
1500−   指導員の時間

参加費:*印講座はそれぞれ講座料金が発生します(教典学習2500円(資料込)/ヨーガ実習1000円)。


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