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13.12.08

Category { サット・サンガ }
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本の紹介『シヴァーナンダ・ヨーガ』では、わたしたちをいつもあたたかく導きくださる成瀬貴良先生著、『シヴァーナンダ・ヨーガ』(善本社)の本文全てをそのままタイプしお伝えしております。 月2回、8日と24日に配信。 著者よりご許可をいただいての配信。 多くの方の目に触れ、心に触れ、奉仕慈愛の心「SERVE」「LOVE」「GIVE」からはじまる愛のヨーガがひろまりますように!
今回は15章 エゴの道〈神の多元性〉〈サーダナーの中のエゴ〉をお伝えします。
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15 エゴの道

神の多元性
長い間サーダナを行っていると、少なくとも、次のような疑問が一度は生じることがあるのではないでしょうか。
ジャパや瞑想、キールタンやサット・サンガなどのサーダナは、それほど必要なのだろうか?
無私の奉仕では不十分なのだろうか?
儀礼的な礼拝などはほんとうに必要なのだろうか?
ジャパや瞑想だけでは不十分なのだろうか?
わたしたちは、自分が行おうとするサーダナを、他の方法と比べてみて、他よりも優れていると思っています。あるいは、自分の好きなサーダナだけを選ぶ、それほど好きではないサーダナは行おうとしない傾向があります。
実は、ここに思わぬ弊害があるのです。このようなサーダナの選択や比較はエゴがすることであり、サーダナを行うのもまたエゴなのです。
究極の事実が『バガヴァット・ギーター』の中に美しく語られています。

神はあらゆるものの心の中に住んでいる。

右の詩の中の“bhuta”とは地・水・火・風・空の物質を構成している根本的な要素のことです。神はあらゆるものの中に存在している、というのです。
この詩を読んで、「もし、神があらゆるものの中に存在しているというのなら、なぜわたしたちは神を体験できないのか」という疑問が生じたならば、それはとても残念なことです。なぜならば、「もし」という言葉の中に、もうすでに疑いがあるからです。
このような神の多様性や多元性の問題は、それ自体それほど重要な問題を引き起こすことではありません。たとえば、頭には無数の髪の毛が生えていますが、問題は生じません。なぜならば、頭を一つとしてとらえているからです。ひとまとめにして、一つのものとして見なすことができるからです。
一方、人生においては、多様性はしばしば混乱を生じさせることがあります。そして、その混乱を作り出しているのが、「わたし」というエゴなのです。
エゴをなくすことができる確実なサーダナなどないように思われます。
人は簡単に言うかもしれません。
「BE GOOD.DO GOOD.」そうすればエゴはなくなるでしょう。これこそ最高のサーダナです」と。
おそらくそのとおりでしょう。しかし、善い人になったり、善いことをするのは、言葉で言うほど簡単なことではありません。
また、他の人はこう言うかもしれません。
「それでは十分ではありません。ヤマやニヤマも育てていかなければなりません。そのときにこそエゴが消え、ニルヴィカルパ・サマーディという深い境地に入れるのです」と。
しかし、なんと仰々しい表現ではないでしょうか。
アンヒサーとはいったい何でしょうか?
サティヤとはいったい何でしょうか?

かつて、わたしたちの仲間に、人が嫌がることを平気で行ったり、言ったり、周りの人たちの感情を害することを何とも思わない人がいました。
彼はこう言っていました。
「あなたたちのほうが外交的でそつがないのさ。その点、わたしはサティヤを実行しているから、ざっくばらんで、なんでも正直に言うんだよ。だから、あなたたちのことをバカだと思ったら、そのとおりにバカと言うんだよ」
しかし、こんなことはざっくばらんともいわなければ、気さくな態度ともいえません。ただ無礼なだけです。サティヤ(正直)ではなく、ヒンサー(言葉の暴力)です。

古代インド、マハーバーラタ時代の英雄、たとえばユディシュティラが嘘をつくような場を与えられなかったらおそらく、彼はずっと自分自身を誇り続けて尊大な人になっていたことでしょう。
彼にとっては、嘘をつかざるを得なくなったことによって少しつつましやかになり、謙遜するような人になったほうが、尊大で横柄なサティヤムールティ(サティヤの権化)になるより、ずっとよかったのです。

サーダナの中のエゴ
わたしたちはヤマを実践しますが、なぜ最初の段階でヤマのような行をするのかを忘れてしまいがちです。それどころか、その行さえ、わたしたちのエゴによってなされているのだということも忘れてしまいます。
ヤマを実践することによって心が純粋になったとき、聖なる恩恵がエゴという暗闇を蹴散らせてくれるのだという考え方があります。そのとおりかもしれません。しかし、そのような境地に到る前に、わたしたちのエゴは非常に大きくなり、始めの頃の考えなど全く忘れてしまうかもしれないのです。
ヤマの実践を正しいと思っているのと同様に、わたしたちは、ジニャーナ・ヨーガの実践を正しいと思っています。そして、ジニャーナ・ヨーガを実践するためには、わたしたちはヴィヴェーカ(識別智)やヴァイラーギャ(離慾)など身につけなくてはなりません。
このヴィヴェーカはある種の知的な鍛錬にもなります。なぜならば、人は「真実」と「偽り」とをしっかりと識別するべきだからです。しかし、あらゆるものの中に真実と偽りの両方が混ざっているものです。これを識別しようとするところにまたエゴが生じるのです。そして、識別から生まれたエゴは、さらに識別を増長させていきます。エゴ自身が識別するものになるからです。
『バガヴァッド・ギーター』と『ヨーガ・スートラ』の両方の聖典に、ヴァイラーギャとアビャーサがとても重要である、と説かれています。
ずっと昔のことですが、ウッタルカーシー(ヒマラヤ地方の聖地)に行ったことがありました。そこで、マナウ(沈黙の行)のために口をきいたことがないというアヴァドウ―タにお会いしたのですが、どうしたわけか同行していたチャイタニヤーナンダ・スヴァーミージーとわたしは、そのアヴァドウ―タと二、三言葉を交わすことができたのです。そして、そのときの話題がヴァイラーギャとアビャーサだったのです。
彼はとてもすばらしいことを語ってくれました。
「アビャーサは、わたしにブラフマンを気づかせてくれ、ブラフマンだけが真実だと悟らせてくれました。そして、ヴァイラーギャによって、この世俗間に縛られることもなくなったのです」
これは、「ブラフマンをいつも忘れてはいけません。そしてこの世俗のことは忘れなさい」という二つの偉大なる教えです。これはたいへんすばらしい教えです。
しかし、すばらしい教えではありますが、もし、このように自分自身のことを他の人たちから切り離してしまえば、エゴはかえって山のように大きくなってしまうでしょう。
そのような心で、どうして解脱などできましょう。どうして、あらゆるものの中に神を見いだすことなどできましょう。不可能です。
これらの教えは、たいへんすばらしいものです。しかし、それは悟ることとは別のものです。
アビャーサやヴァイラーギャを実践しようと思っているのはいったい、だれなのかというと、これもまたエゴなのです。「わたしは心を純粋にするために、天国に行くために、無私の行為を行っている」と考えるのもエゴなのです。こうして、あなたはやがて、「自分の心を不純なものにしているのはこのような考えなのだ」と気づくのです。
スヴァーミー・クリシュナーナンダはこのことを、「カルマ・ヨーガはジーヴァン・ムクタを成し遂げた人のためのものです」とたいへん簡潔に表現しました。それは、カルマ・ヨーガはヨーガに成功するためのサーダナではないということでもあるのです。
カルマ・ヨーガは、ジーヴァン・ムクタを成し遂げた人のローカサングラハ(世の中の人たちへの影響・働きかけ)なのです。しかし、わたしたちにエゴがあるからといって、カルマ・ヨーガを実践しなくてもよいというわけではありません。

コメント:ヨーガの教室では姿勢や呼吸を観察することから始まり、様々なポーズに取り組みます。外へと向かっていた意識は自然と自分の内側へと向かってゆきます。意識が内へと向かうことで今の自分と向き合うことができます。身体やきもちの不調が完全に取り除かれなくとも今より少し軽くなるだけでずいぶんと楽になるものです。私というエゴも無理に無くそうとせず、自分ができるペースで向き合って行ければ今よりも少なくなるのかな…などと感じています。今日もみなさんの学びや実践が光り輝きますように…。共に学び、共に歩み続けましょう~♪

コメント:《今》を生きているものにとって、エゴとは…ピッタっとどこまでも付いてくるもの。しかし、このエゴとどの様に向き合い、受け入れ、気付くことができるか。取り巻く環境の中で、自分の弱さ、獣性を追いやるのではなく、ただその性質があることに気付き鎮めていくこと。ヨーガの実践はそんなことを教えてくれるような気がします。また、こうして聖者の話を聞くことも実践と同じように心の浄化となるのではないでしょうか。読んでは頷き、忘れてはまた読み…の繰り返しです。美しい考えが持てるよう美しい言葉に触れていきたいものですね。

本の販売をしています。ご希望の方はスタッフへお声掛けください。

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13.12.05

Category { トリャンバカム・ヨーガ・センター盛岡 }
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東京都狛江市トリャンバカム・ヨーガ・センターの会員様
ホロリっと古布を持参してくださいます。

今日はストール大布をくださいました。
K.Sさんです。
もう、何回目になるでしょうか。

工房にカーテンがなかったな…
くらしの大布は風呂敷代わりに役立つだろうな。
相応しいところで
タイミングよく活かさせていただこうと思います。
皆さんのココロとコロリンと暮らす【織り織りのうた】〜♪

ありがとうございました。


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