本の紹介『シヴァーナンダ・ヨーガ』では、わたしたちをいつもあたたかく導きくださる成瀬貴良先生著、『シヴァーナンダ・ヨーガ』(善本社)の本文全てをそのままタイプしお伝えしております。 月2回、8日と24日に配信。 著者よりご許可をいただいての配信。 多くの方の目に触れ、心に触れ、奉仕慈愛の心「SERVE」「LOVE」「GIVE」からはじまる愛のヨーガがひろまりますように!今回は2部の18章〈統合的なヨーガ〉の項後半をお伝えします。
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18 統合的なヨーガ
グルへの奉仕だけでもいけません
社会への奉仕にエゴを大きくしていく危険性があるとしても、「グルへの奉仕」ならば、少なくともこのような危険性はないだろうと考える人もいるでしょう。
しかし、グルデーヴはそのような弟子の態度をまったく喜ばれませんでした。このことに関して、わたしはある出来事を思い出します。
それは1946年のある日のことでした。そのころアーシュラムにはたくさんの仕事があり、人手が全く足りない状況でした。スヴァーミージーが、今では郵便局になっていますが、そこで仕事をされていたころのことです。
夕方の5時か6時ころ、わたしは自分の部屋でタイプを打っていました。そこへグルデーヴが突然入って来られ、こう言われました。
「何をしているんだい」
自分がいましていることを答えると、グルデーヴは言われました。
「今日はもうジャパをしたのかい。瞑想はもう終わったのかい」
わたしは立ち上がり、グルデーヴを見て答えました。
「いいえ、まだです。いま、この仕事をやっていますので…」
わたしは、グルデーヴと口論する気持ちなどまったくありませんでした。それに、部屋の貼り紙には「仕事は礼拝と同じです!」と書かれています。
それにもかかわらず、グルデーヴは言われたのです。
「そのタイプライターをガンジス河に捨ててしまいなさい!さあ、仕事はやめていきなさい。行って、しばらく瞑想をしてきなさい」
グルデーヴ は、グルへの奉仕だけが重要なのではなく、一人ひとりのサーダナも同じくらいに大切なものであると、ご自身の生き方を通してわたしたちに示してくださったのです。
あらゆるサーダナを同時に行う
そのころグルデーヴは、アーシュラムの活動や仕事にある一定の時間を振り当てられていて、ご自身のサーダナにも実に多くの時間を当てられていました。
年齢にもかかわらず、たくさんの仕事があるのにもかかわらず、グルデーヴご自身のプージャーの時間も依然として持たれていました。身体の具合が悪くて床に坐れない時には、祭壇を高いところに置き、そこでご自身のプージャーを毎日行われていたのです。
グルデーヴは自らの救いの為にプージャーを行われていたのではなく、おそらく、わたしたちがそれを手本とするようにと行われていたのだと思います。
あらゆるサーダナを同時に行うときにエゴの存在を発見することができるのです。自己観察によりエゴを発見し、実はエゴ(私という実体)は存在しないものだと分かったときに、初めて無私の奉仕が可能となるのです。エゴは存在しないと悟らない限り、無私の奉仕はあり得ません。
しかし、実をいうと、実際はすべての奉仕が無私の奉仕なのです。なぜならば、何かをするエゴというのは最初からないのですから。奉仕をしようと思うのも、奉仕をするのも、すべて神のなさることなのです。
ですから、わたしがここに座っているのも、こうして皆さんに語っていることを誇りに思い嬉しく感じているのも、ほんとうにすべて神がそうなさっているのです。どうかこの真実を悟ってください。
もし、あなたが神は神秘的なものであると思うならば、さらにこのエゴも神秘的なものです。なぜならば、エゴ(私という実体)はもともと存在しないものだからです。そして、この非存在(壁に映る影のようなもの)であるエゴは取り出すことも、壊すことも、光を当てて消してしまうこともできないのです。
真にエゴを解明すること以外の方法であなたがエゴを取り去ることに成功したとしても、それでは何の意味もありません。
「真実の自己」を知ること以外の方法であなたがエゴと闘ったとしても、それでは逆にエゴを強くしていることになってしまいます。それが、ラーマナ・マハーリシが一つの場所にずっととどまっていた理由であり、ディヤーナ(瞑想)はエゴ的――エゴのする仕事という意味――であると語った理由なのです。それでは解決にはなりません。ラーマナ・マハーリシによれば、ヴィチャーラ(静観、観察)だけが解決策なのです。
個人的なサーダナと社会奉仕によってエゴをなくす
個人的なサーダナ(ジャパやプージャー、瞑想、その他のあらゆる行)を無視することなく、同時に、グルや社会、さまざまな形の神への奉仕も無視することなくヨーガの生活に入れば、エゴが生じる余地はなくなります。
朝の瞑想やジャパ、プージャーなどを行うときも、エゴをなくすという意識を培っていったならば、その想いがますます広がっていくことが分かるでしょう。それは「無影灯(影を生みださないランプ)」のように光を放つでしょう。このランプはあらゆる方向から光を当てた時のように影をつくらないのです。
それによって、たとえ修行以外のときでも、あなたが行うことは、どんなときでも注意深く慎重になります。
瞑想しているときにも、寺院で礼拝の儀礼をするときにも、あなたは自分のうちに神の存在を感じ取ることでしょう。そして、寺院に祭られている神像の足元に1枚の葉を捧げるときにも、崇拝の歓びの気持ちといったものを感じるようになるでしょう。
このような気持ちや態度であらゆる行為がなされなければなりませんが、それは個人的なサーダナによってつくられていくのです。
しかし、もしあなたが個人的なサーダナだけに限定してしまったならば、心は出口も表現方法も見出すことができません。したがって、自らのうちにそのような気持ちが本当に燃え上がったのかどうかを試すことはできません。
そこで、世間に出て人と交わり、あなたの義務や奉仕をするのです。そして、そうしているときに、あなたがずっと行ってきたサーダナがどのような意味を持っているのか、効果があるかを、しっかりと観察するのです。
わたしたちが真に「Divine Life」(神聖なる生活)を生きることができるのは、そのように世間に出た時なのです。
「わたしは何もしていません。神がそうなさったのです」と心から言えるヨーギーになれるのは、そのときだけなのです。
ジャパや瞑想、プージャーなどの個人的なサーダナと呼ばれるものでさえ、それを行うのは神なのです。
これらすべてのことを行うのは神だけなのです。
神は神を通して神に奉仕するのです。
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コメント:エゴをなくそうと心で考えてもエゴは手を変え品を変えどんどんやってきます。日々のサーダナを続け、社会で奉仕することでエゴはなくなってゆくものと書かれた章がありました。自分にとって一番良いサーダナとはなんでしょうか?自分ができる社会奉仕とはなんでしょうか?サーダナや奉仕をすることを通して自分自身におこる変化を感じてゆくことを続けたいと思います。エゴは手強く難しく感じますが、そんな時こそ、立ち止まらずに実践し続けることが大切なのかもしれません。続けるうちに道も開けてくるのでしょうね。今日も皆さんのヨーガの道が光り輝きますように…OM
コメント:エゴとは、なにものなのでしょう。行為全てがエゴである。と知り、エゴをなくすという意識を培う努力を日頃から心がけているならば、どんな場面でも観察し慎重に言葉を、行動を、しぐさを、眼差しを選ぶことができるのではないでしょうか。世間から離れてしまってはこのエゴと向き合うどころかそのチャンスを排除してしまうことになります。今この瞬間から自分のエゴを観察し、どのように付き合ってゆくのかを学ぶことができる身体があることが幸せですね。
2014/2/19(水)朝ヨーガ 10:30-12:00
長又美保指導員→高野美紀指導員
粉雪舞う中、祝日開催の『みんなYOGA』第一回目(2/11祝)が終わりました。今回は急な会場変更があり、参加者皆様を戸惑わせてしまいましたことをお詫び申し上げます。
いつもと空間が変わり…景色も変わり…しかし、空間を作り出すのはそこに居るもののようです。小さな箱の中でぎゅーぎゅーになって沢山の方がヨーガを熱心に通しました。とてもいい空間になり、各々様の中へ溶け込んでいかれたようです。
2014年、『みんなYOGA』からヨーガの輪が広がりますように。
会員様→振替レッスン可
ご家族・お友達→1回受講通常レッスンの半額(3,000円→1,500円)
次回は7/21(月・祝)お誘い合わせてご参加下さい。