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21.06.23

Category { 月刊新聞 }
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ऋषिकेश Rishikesh

ऋषिकेश Rishikesh


シヴァーナンダ ・アーシュラムの夕刻。
「こんなに美しくやわらかな時間…こういう時間が本当にあるんだなあ〜」
「この数日は一体なんなんだろう…」数年間、毎年リシケーシでいく日かを過ごしましたが、訪れるたびに夕刻にはいつもそう思ったものでした。
もう一つ、リシケーシで過ごすと不思議な現象が起こります。それは身体がとにかくぐにゃぐにゃに。柔らか現象が起きます。
人は安らぎが続くとこうなるんだな〜。赤ん坊がそうだなあ〜と妙に納得したものでした。
こうして当時の場面を思い出すだけで柔らかくなりそうです(笑)。不思議です。

景色が美しいか・・・いえ、目を開ければ決してそれありません。
見れば路地は狭く、泥水なのか汚水なのか、コンクリートの隙間から流れています。
やわらかな時間・・・うーむ、これもどう見てもそうじゃないですね。
ぶつからないで行き来するのが難しいほど人、人。ルールなく喋りながらあっちこっち。言葉は幾人も超えて頭の上を交わされていく。
けたたましいクラクションの響きの中でどうして柔らかだと感じるのかしら?
準備され整ったウェルカムと包んでくれるホテルの一室ではないし、
静けさと荘厳な寺や神社の中でももちろんありません。

どんな音も光景も超えさせる力に引っ張られるみたい。

これが最初から整っているところだったらその変化に気づいただろうかとも思います。
こうして、日常がすざましくて、喧騒で、問題だらけだから ある一つの開かられているところに引っ張られるのだと感じます。

ヨーガが日常で生きてきた理由だと感じるのでした。

今日は美しい月ですね。
頑張ってる、踏ん張っている方ほど、その光の美しさや壮大なやわらぎにに引き寄せられるのではないでしょうか。

こちらは、アーシュラムの部屋。これは2019年の最近の部屋で、昔に比べるととってもきれいで広い。これは夕方。
ベッドと毛布一枚(この時期は毛布でもない、ただの布)、小さな机とトイレと洗面器があるだけの簡素な部屋。
きれいに見えますが、掃除は自分でマメにしていました(笑)。
浴室やトイレは水浸しになりますが、バスマットなどがないので、普通は部屋の床が水で濡れた足跡が付いたりして、外靴で過ごす人も多いと思う。
私は裸足で過ごしたいので、いつも自分が移動すれば雑巾で拭いたり掃いたりしていました。
共同で使う掃除道具があります。
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21.06.22

Category { サット・サンガ }
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音は韻、つまり一音(=エーカム)がまず最初に。
神の示現であるクリシュナは言います。「わたしは音声(アクシャラ)の中の一音(エーカム)である。」エーカムとは「ただ一音」ですが、それはオーム のことを指しています。その後で韻律を表す一文字が生まれます。

オーム(上図は「ア」。下がシッダンの「オン」) はシッダン(梵語)の原初音で、種子マントラ。
すべてのマントラ(真言)の中のマントラ、グルのグル、そのグルのグルのグル…とも言える源であり、そこから全てがはじまる。
故に、ヨーガもオーム を唱えて始まる。言葉そのものが持つ意味はない。意味がないのではなくて、すべての意味が帰還し持たない一音。故に聖音。
古代インドのヴェーダ(祭祀主義の宗教)の儀礼では波羅門たちによってまず最初に高唱された。

少し時代が下ると「a・u・m」を、三ヴェーダ(神々について、あるいは祭式についての内容が書かれた古代インド聖典リグ・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダ)に当て、またヒンドゥー教三大神ビシュヌ(護持)、シヴァ(破壊)、ブラフマン(創造)に配したりして伝わる。

仏教や日本神道の祝詞の「オン(唵)」はこのオームに由来し、キリスト教の「アーメン」、イースラムの「アミン」の語源も同じである。

「唵」は「梵(ブラフマー)の一字表現(『サーマ・ヴェーダ』)。梵語(ヴェーダ語でシッダン)のオームはシッダン文字で一字表現となる。
文字の話をすると、
ヴェーダ文字(ヴェーダ宗教で使われていた言葉)はその後シッダン文字が生まれるが整頓され消失し、サンスクリット語になる。日本に入った時はシッダン文字であったために、日本にだけ梵字として残ることとなり(インドや中国、韓国ではこのシッダン文字は使われなくなり消失している。)現代でも卒塔婆(ストゥーラ)に使われている。

密教では真言の代表句となって「唵」一字をもって「法・報・應」の三身を表し、瑜伽(ゆが)行(ヨーガ)と結んだ行によってこれを観想(瞑想)すれば彼岸(パラ)に到達(ガテー・羯諦)し得る梵船になると云われた。
行法として(実践法)
・唵字観
釈尊の六年間の修行の中にあるのもこの唵字観。
行:鼻頭に月輪を想い、
月輪の中に唵字を観想する修め。
・ア字観(写真)
同じような観想の修行にア字観もある。
行:梵字「ア」字に対坐して、
自身の胸中にア字を観じ、
漸次拡大して自己とア字が同化し、
宇宙法界にまで広げるもの。

「唵」が「梵(ブラフマー)」の一字表現であるのに対して、「ア」は「真我(アートマン)」であろうか。
ア字は不生不滅であり原初(アーディ、アーディティ)であり原初の支柱・輪・光(アヌトゥパーダ)。

讃えられる「オーム」について書かれている古代のウパニシャッド文献(チャーンドーギア・ウパニシャッド)の訳を紹介することにします。
1−1(第1章1節)、まず最初に記されているのがこのオームについて。

【高唱の崇信】
一 ・ 一

[一] 「オーム」というこの一音を高唱として崇信すべきである。祭官は先ず初めに「オーム」を唱え、しかる後に高唱するのである。この一音に関する解説を述べてみよう。

[二] 曰く、森羅万象にとって地はその精である。地にとって水はその精(ラサ)である。水にとって草木はその精である。草木にとって人間はその精である。人間にとって語はその精である。語にとって讃歌(リッチ)はその精である。讃歌にとって讃唱(サーマン)はその精である。讃唱にとっては高唱がすなわちその精である。

[三] かの如く、高唱なるものは精中の最精なるもの、至高、至尊なる第八の精である。

[四] しからば、讃歌とはつまるところ何か?讃唱とはつまるところ何か?高唱とはつまるところ何かという問題が生ずる。

[五] 讃歌は要するに語(ヴァーチ)である。讃唱は要するに気(プラーナ)である。高唱は要するに「オーム」の一音である。語と気、讃歌と讃唱とはそれぞれ配偶をなしている。

[六] この配偶は「オーム」という一音の内において結成されるのである。そして、二人の配偶者が合体する時には互いにその欲望を満たし合うことができる。

[七] 故に、以上の如くに知ってこの一音を高唱として崇信するものは必ずや百般の願望を達成することができるのである。

[八] また、この一音は応諾である。すべて、人が何事かを応諾するときには「オーム」(応!)と応えるものである。そして、応諾は成功にほかならない。以上の如くに知ってこの一音を高唱として崇信するものは必ずや百般の願望を成就することができるのである。

[九] この一音のちからによってこそ三つの学道(ヴィティヤー)も行なわれるのである。祭儀官はまず「オーム」と唱えて後に助手に呼びかけ、歓請官(ホートリー)はまず「オーム」と唱えて後に参加を誦し、高唱官(ウドガートリー)はまず「オーム」と唱えて後に高唱するのである。かの如きひとえに、この一音が偉力であり、万物の精髄たる故を以ってこれを讃嘆せんがためである。

[十] 以上のことを知るも知らぬもともどもにこの一音によって祭儀を行っている。されで、知ると知らぬとでは相違がある。学道(ヴィディアー)と信仰と奥義(ウパニシャッド)とを以って行う祭儀は一層有効である。

以上がこの一音に関する解説である。『チャーンドーギア・ウパニシャッド』(佐保田鶴治訳)

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21.06.20

Category { 月刊新聞 }
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 常に、常に…湧き立つように、震える振動のように感じること。
「伝承(伝統)」に関してー。

 国際YOGA DAYで高野山からのライブ中継がありました。多くの人が日本の聖地高野山の景観、その気配、また行われる対談やヨーガをご覧になったと思います。
自分にとって、思いを留めてみる良い機会なので「伝承(伝統)」に関して書いておこうと思います。
 日本人だからというひいき目はなく、日本はほんとうに素晴らしく美しい、神の生きる国、生きて存続する聖なる地を持つ国だと思って誇っています。
高野山や伊勢神宮などにある実在を崇拝します。現在も生きて継承される生命への礼拝が今も毎朝あるのですから、日に一度の食事が早朝に運ばれ、今もそこで瞑想を続けているバガヴァーンが居られます。
地球レベルという視野に広げて見ても、このような生きた杜がある日本のような国は他にあるでしょうか?
パルテノン神殿にはありません。遺跡は世界中にありますが、生きていません。空っぽの保存です。
インド、ヒマラヤ自体が聖地と言われますが……
 数珠の聖典『バガヴァッド・ギーター』も人間に与えられた祭祀のための行為と知識に関してこう悟りを告げています。
「不滅のヨーガをまず太陽神に説いたが、久しい時を経て伝承はしだいに失われた」と。
そして、神の化身として現れているクリシュナは、世界の維持のために最高の秘説である古(いにしえ)の智慧のヨーガを、いまあなた(熱意ある者であり、友であり、息子であり、自分自身であるあなた)にだけ教えようと告げます。(こうして語られて伝えられている会話がヨーガの教典でもある『バガヴァッド・ギーター』です。)

 伝承される崇拝が今も生きていると証明できるのは、それは実在です。観念論ではありません。実在論です。
継承は<信じる><真似る>だけでもなんとか伝わるかもしれませんが、やはりいずれ変化するのではないでしょうか。
実際が実在する振動するような点の連続によってのみ、真の伝承は起こり得ないと。
共に同じ経験が連続するということは<信じる>も<真似る>も超えていくものだろうと。

日々の行為の瞬間、瞬間に生きていなくてはなりません。
つなぐとか結合という意味だとよく説明される「ヨーガ」の字義ですが、字義的に学術的に説明すると、ヨーガの言葉自体にはその意味はなく、
馬と馬車を、あるいは牛と牛車をつなぐくびき(つなぐ道具)がヨーガであると説明されるのです。
すると、こっちとそっちを繋ぐという意味という解釈ではなくて、
こっちとそっちを繋ぎたいのだという強い意志によって工夫をしてもたらされるもの、それがヨーガだと、こういうことになるのが本当の説明になると思います。
この説明は、私は先生(成瀬貴良先生)からしつこいほどに説明を受けたので、はじめははっきり違いがわからなかったけれど、あまりに説明されるのでよほど何か大事な意味があるのだろうと調べ直して(東洋哲学、宗教学者、博士、文学者、ヨーギーの佐保田鶴治博士の講話集や著書などから)はっきりわかったことです。ヨーガという言葉の意味が繋ぐ、結合と単に言っていいのだろうかと、大きく異なる意味になるという考えを持ちます。
ちなみに、ヨガというのも、ヨガというのは字義的、学術的にみるとあり得ません。梵語の「O」は長音でヨーガというルビになるはずです。もちろん、発音上はどちらでも良いですが、書くときはヨーガとなります。

 伝統に話を戻すと、何を伝えているのかと関心を持ち、心を寄せ、愛おしいほどに渇望した時、その伝承を意味するところが聞こえてくるのでしょう。
強い寄り合いの心が必要ですし、また、そのための筋道だった礼節(儀礼)は熱意を示す礼儀であり、揺るぎない決意の現れでもあり、実直さや誠実さを示すものとして正しく対面されるべき日々の行為です。
 日々のヨーガは行為でもあります。また導きたいと強く寄り合うための道具なのですから、日々の【サーダナ(修行、修習、到達)】にこそなのです。
 個人的ではありますが、ヨーガ・サーダナには生きた振動が常々与えられます。実直に、正確に、それでいて素直にまっすぐと向かう時、震える振動の伝承は生きて与えられるのではないでしょうか。かつてから、古代のヨーガ行者はその伝承を日々のサーダナに感じて、日々連続することなので、終わりのない、常に幸せを与えられるからこそ尽くす修行をしたのでしょう。
 サーダナにこそ「伝承」という実感が生きています。が、それを選ぶ(する)かは人に任されています。だから人間なのでしょう。

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2021.06.20


21.06.19

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バージョン 3
世田谷区の区民会館は6/20以降の状況です。
スケジュールをご確認ください。
2021.6月 月間開講日程

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