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―本の紹介―『シヴァーナンダ・ヨーガ』善本社 成瀬貴良氏編訳

2012.12.08

Category { サット・サンガ }
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第2部に入り【理論と実践】の項を紹介していきます。毎月8日・24日と2回に分けてきりのいいところまでをご紹介いたします。興味をもたれた方は『シヴァーナンダ・ヨーガ』をお読みください。

シヴァーナンダ・ヨーガ第2部
1 理論と実践
ヨーガ・ヴェーダーンタ・フォレスト・アカデミー(Y.V.F.A)
グルデーヴ・シヴァーナンダが*「ヨーガ・ヴェーダーンタ・フォレスト・アカデミー」(創設時はユニヴァーシティ)を創ろうという考えを持たれたとき、*スヴァーミージーの頭の中にはすでに一つのヴィジョンがあったのです。それは「理論と実践とが一つになったものを学ぶところ」というものでした。
ヒマラーヤ山脈の聖地*リシケーシに来られたならば、皆さんはきっと、光り輝くたくさんの魂と出会うことでしょう。
ここには、果てしない沈黙の行を続けている人たちや、自ら修行に専心している人たちが大勢います。
彼らの多くが、自らの意思でさまざまな修行を行っています。そして、ときには周りの人たちに教えを授けることもあります。
もし、だれかがここに来て、そのような人たちと一緒に暮らすことができたなら、*シャクティー・パトによって、その人もまた彼らと同じような光り輝く魂に到達できるかもしれません。しかし、それはその人次第ですので、必ずできるとは限りませんが・・・。

実践だけでは不十分
人は、身体を動かさず、背筋を真っすぐに伸ばして、ただ単に坐っていれば解脱できるというものではありません。動かなければよいというのであれば、ガンジスの河原の石にしても何千年もの間じっと動かないでいますが、その河原の石が解脱しているなどとはだれも考えもしません。
このことに関するエピソードがありますので、ご紹介しましょう。

一つは1946年にさかのぼります。当時、ガンジスお河岸も土手も今のようには開発されておらず、まだ階段も何もありませんでした。
今では郵便局になっていますが、河岸には当時、長いテラスのある建物があり、その建物でサット・サンガが行われたほか、オフィスや台所、食堂もあって、すべてのことが行われていました。
*グルデーヴはそこで、早朝4時15分から6時まで瞑想クラスを指導されていました。ガンジスの右岸では毎朝この時間帯、かなり強い風が吹きます。そのため、グルデーヴは厚いコートとショールをターヴァンのように巻いて、いつも4時きっかりに部屋から出てこられました。
小さな*クティールから出てこられる悟りを開かれた聖者のお姿はとても感動的で、わたしたちはたいへん勇気づけられたものです。
アーシュラムにはそのころ、アンドラ・プラデーシュ州から来たというある修行者が滞在していました。いつも、勝手に近くにある大きな岩の上で、とても窮屈そうなポーズで坐っていました。
ある日、瞑想クラスが終わった後、グルデーヴとわたしたちが石のベンチに座って話しているところに、先ほどの修行者が瞑想を終えてやって来ました。
グルデーヴは何かおもしろいことを言われるときにはいつも片目をつぶってみせるのですが、このときもそうでした。
グルデーヴはしばらくその男と話をすると、彼が毎朝4時から7時まで瞑想していることを皆の前で語り、いかにも彼を褒めたかのようにみえました。
ところが、そのとき突然、グルデーヴの様相が一変しました。そして大きな声で言われたのです。
「みんな、彼のことをよく見てごらん!なんと眠たそうにボーっとしていることだろうか。あなたはいったい、何をしていたのですか。ただ岩の上に坐って眠っていただけですか。瞑想やサマーディの本当の意味を知っていますか。それは、大いなるものに触れることです。感じることです。大いなるものに触れたとき、それがどんなに力やエネルギーをもたらしてくれるか、あなたには分かっていないようですね。あなたは、いつも深い瞑想を3時間も楽しんでいると言いました。それなのに、瞑想が終わったあと、あなたは眠そうなボーっとした顔つきをいっぱいにしているではありませんか。顔でも洗ってきてはどうですか!あなたも一緒に水を運ぶのを手伝って、水桶いっぱいにしてみなさい。そのとき、あなたにも本当のサマーディの意味が分かるでしょう」
その当時、アーシュラムには水道も井戸もなく、わたしたちがガンジス河から水を運んできては、台所の水桶に溜めていたのです。
サマーディというのは、ただ単にじっと坐っていればよいというものではありません。もしそうならば、ガンジスの河原はみな、サマーディに到達していることになってしまします。

二つ目はわたし自身が経験した話です。
1948年のある日、わたしは三時間ほどの間に、ガンジス河まで何度か下りていかなければならない用事がありました。そのとき、ほとんど裸に近い*サードゥが、半眼の姿勢で樹の下に坐っているのを見かけました。
わたしは、彼はきっと偉大な*ヨーギーに違いないと思いました。だから何時間でもじっと坐っていられるのだと。
ある日、突然、そのヨーギーは滞在していた寺院を出ていきました。後で聞いたところによると、彼は真のヨーギーなどではなく、ああして何時間もじっと坐っていられたのも、何かの薬の力によるものだということでした。
もし、長い時間じっと坐っていようと思ったけれど、うまくいかなかったとしたら、あなたはどうしますか。何もしないで、すでにその状態に達しているようなそぶりをしますか。あるいは、何か解脱への近道はないか見つけようとしますか。そのとき、だれかがやって来てこう言ったらどうでしょう。
「そんな無駄な時間を費やさないでも、この薬を一嗅ぎすれば本当のサマーディにはいれるのに」
するとあなたは、もしかしたら他の修行者やグルも同じようなことをしているのではないだろうかと考えるかもしれません。しかし、このような粗野な人たちの真似をすれば、あなた自身、彼らと同じになってします。あるいは、どうしようもない*タマスティックな人間に陥ってしまいます。
ですから、ただむやみに実践するだけではなく、さまざまな知識も必要なのです。

聖者は時に、自身の持つ能力(シャクティ)をそれにふさわしいと思われる求道者(アディカーリー)に伝えることがあります。しかし、その資格(アディカーラ)がとても重要で、だれもがその能力を受け取れるわけではありません。すでに機が熱した弟子だけが、悟りへの真の智慧を得ることができるのです。
しかし、まだその域に達していない多くの人たちや、もっと学問や理論を必要としている人たちのことも考え、グルデーヴは理論と実践との両方を教えるところとして「ヨーガ・ヴェーダーンタ・フォレスト・アカデミー」を創られたのです。
*「ヨーガ・ヴェーダーンタ・フォレスト・アカデミー」:1948年7月1日に設立
*スヴァーミージー:「スヴァーミー様」の意味。ジーとは「様」などの敬称で名前の後につける。本書ではスヴァーミー・シヴァーナンダを指していることが多い。
*リシケーシ:ガンジス河上流にある、北インドの代表的な聖地。河畔にはシヴァーナンダ・アーシュラム、ヨーガ・ニケータンなど、多くのアーシュラムや寺院がある。
*シャクティー・パト:グルが自分の持っているエネルギーや才能や恩寵を弟子に対して授けること。シャクティとは「エネルギー、性力」、パトとは「注ぐ、注ぎ入れる」。
*グルデーヴ:「神としてのグル、神のようなグル」の意味。本書ではスヴァーミー・シヴァーナンダのこと。
*クティール:小屋、小さな部屋あずま屋。アーシュラムの宿舎。
*サードゥ:修行者。遊行者。
*ヨーギー:ヨーガ行者
*タマスティック:タマス的。タマスとは、3つのグナ(サットヴァ、ラジャス、タマス)の一つ重い・暗い・覆い隠すなどの性質。

コメント:どんなに素晴らしい知識を学んだとしても得た知識とは違った行為をしていたら・・・チグハグですね。他人の事はよく客観的に見れますが自分自身の事になるとどうでしょう?意外とチグハグな自分がいたりするのではないでしょうか。すばらしい知識を得たならばその知識を実践する努力、日々の生活の中で継続しつづけることが本当の意味で理解ですね。言っていること、していること、両方が一致しているウソがない人に少しでも近づけたらと思います。

コメント:実践だけ、あるいは知識だけでは不十分。これは日常的に感じることがあります。あるランナーがこんなことを言っていました。「ただただ走るだけでは早くならない。手と足とが連動して良いフォームを作り早く走るコツを知っていること。この二つが合致したときに驚く程早くはしれる」何においても断続的な実践と知識が深い理解と結果を生むのだと思います。シヴァーナンダさんはこの両方を兼ね備えることが大切だとおっしゃっています。次は「知識だけでは不十分」の項に進みます。一緒に読み進めていけたら嬉しいです★

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