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―本の紹介―『シヴァーナンダ・ヨーガ』善本社 成瀬貴良氏編訳

2012.12.24

Category { サット・サンガ }
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今回は【知識だけでも不十分】の項を紹介していきます。毎月8日・24日と2回に分けてきりのいいところまでをご紹介いたします。興味をもたれた方は『シヴァーナンダ・ヨーガ』をお読みください。

知識だけでも不十分

沈黙や瞑想を好む聖者は、理論的背景や哲学を語ることなどあまりありません。
一方、もしあなたがベナレスなどの聖地に行ったならば、哲学や宗教の講義をしている人びとを大勢見かけることでしょう。しかし、自ら説いている教えに沿った生き方をしている人は少ないものです。ですから、グルデーヴは彼らを特別に尊敬するということはありませんでした。
 次の出来事がそのことを示しています。

 オフィスでは、私達の仲間が3人、いつもグルデーヴと一緒に働いていました。そのころはまだ仕事もそんなに忙しくなく、グルデーヴも私達のために多くの時間を割いてくださいました。
 ある朝早く、哲学を教授しているという男性がオフィスに訪れ、グルデーヴにこう訊ねました。
「スヴァーミージー、ひとつ質問があります。*ニルヴィカルパ・サマーディと*サヴィカルパ・サマーディの違いを教えてください」
 その質問は、私達弟子にとっても、その違いを知る良い機会でした。なぜならば、だれも思い切ってそのような質問をグルデーヴにすることができなかったからです。
 わたしたちは仕事の手を休めて、グルデーヴがなんとお答になるか、じっと耳を傾けました。まさに、それは百万ドルにも匹敵する質問でした。
 グルデーヴはメガネをかけると、教授を見つめ、こう訊ねました。
「もう朝食はとりましたか?お茶かコーヒーはいかがですか?」
教授は何か答えなければなりませんでした。
「それではお茶をいただきます」
やがて、お茶と果物と何冊かの本が運ばれ、教授がお茶とイディリ(南インドの軽食)を楽しんでいると、そこに教授の夫人がやって来ました。彼女はオフィスの中を一瞥すると、「いつまで私を待たせるつもりなの、ずっと待っていたのですよ!さあ、行きましょう!」と言いました。教授は静かに立ち上がり、頭を下げて言いました。
「もう行かなくてはなりません」+
彼が立ち去るやいなや、グルデーヴは笑って笑って笑い転げました。でも、それはなんとも言いようのない優しさに満ちた笑いでした。
「教授はサヴィカルパ・サマーディとは何かという大切なことを知りたがっていたのに、奥さんに一喝されただけで、立ち去ってしまったよ!」
 この教授のようなタイプの人はどこにでもいるもので、『*バガヴァット・ギーター』のわずか半行の講義で何時間も聞く者の耳を夢中にさせるくらい膨大な知識を持っています。それはそれでとても素晴らしいことです。グルデーヴはそういう人たちを愛し、その豊富な知識を讃えました。しかしそれだけのことです。それ以上の事はありませんでした。
他にもまだおもしろいはなしがあります。
 それは、グルデーヴの全インド・ツアーでのことでした。グルデーヴは学者たちの前を通り過ぎる時にはいつも挨拶をするのですが、あるときベナレスで、ひとりの学者がサンスクリット語で何か質問をしました。(訳者注:インドでは今日、サンスクリット語はごくわずかな人にしか通用しません)。
グルデーヴは彼を振り返ると言いました。
「Comment ca va,comment vous appellez vous?」
これは、グルデーヴが知っていたたった二つのフランス語だったのです。
その学者はグルデーヴの言葉を理解できませんでした。
 わたしたちはお互い、意思の疎通を図らなければなりません。と同時に、どうすればよく伝えられるか、その方法も考えなくてはならないのです。理論も実践も、人から人へと伝えられていかなければなりません。人と人とは敵同士などではなく、友人なのです。ほかの人と共存できない人はとても空しいものです。

*ニルヴィカルパ・サマーディ:「区別のない三昧」の意味。最高の三昧。無分別三昧
*サヴィカルパ・サマーディ:「区別のある三昧」の意味。まだ分別が残っている三昧
*バガヴァット・ギーター:ヒンドゥー教の聖典。クリシュナ神によって、ジニャーナ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、カルマ・ヨーガが説かれている。

コメント:シヴァーナンダさんが生前残された言葉に「本で学んだ学問など何に使えるでしょうか。本から得た知識ではあなたを救えません。」とあります。書物を読み、感動し、自分もこうありたいと感じたことはだれもが1度は体験したことがあるのではないでしょうか。感動し、共感したとしても自らが実践するというのは難しいものです。だれもが簡単に実践できてしまうのなら素晴らしい書物に出会った人すべてが素晴らしい人になってしまいますものね。実践とは、やり続ける信念も必要なのかもしれません。素晴らしい知識を得たならば、少しずつでも実行しようと努力する人であり続けたいですね。実践することのむずかしさや大切さに改めて気づかされます。知識だけでは不十分なのですね。

コメント:アシュターンガ・ヨーガのヤマ・ニヤマという戒めの中にサティア(真理・誠実・真実)という教えがありますが、このサティアには『ただ真実を話すというだけではなく、難解な言葉を避け、分かりやすく愛情をもって話すことも含まれます』(著者 成瀬貴良氏 インドの叡智抜粋)とあります。この項を読んでいて思い出しました。優しさとは相手を思い「どんな方法で、どうすればよく伝えられるか」を考え伝えることなのだと教えて頂きました。どの場面においても同じように実践してゆくのは難しいですが、そうでありたいですね。人と人とが友人であると理解すれば争いごとは起こらず優しさは広がって微笑みに包まれるのだと思います。Om santih

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