ー本の紹介ー『シヴァーナンダ・ヨーガ』善本社 成瀬貴良氏編訳
本の紹介『シヴァーナンダ・ヨーガ』では、現在は専任講師であり、わたしたちをいつも導いてくださる成瀬貴良先生の名訳『シヴァーナンダ・ヨーガ』(善本社)の本文全てをそのままタイプしております。
月2回、8日と24日に配信。
著者である成瀬貴良先生よりご許可をいただいております。
先生の寛大なおこころに合掌。
そして多くの方の目に触れ、心のヨーガがひろまりますように!
今回は「クローダ」と「グルデーヴの怒り方」ご紹介いたします。ご興味をもたれた方は『シヴァーナンダ・ヨーガ』をお読みください。
クローダ ―――憎しみ
「クローダ」(怒り、憤怒)は、『バガヴァッド・ギータ―』の中に、「憎しみ」や「嫌悪」と同義語のように説かれています。
「憎しみ」というと、ある種の攻撃的な振るまいを連想します。しかし、攻撃的な行為は憎しみの1面にしかすぎません。憎しみの根本的な性質は、何かを判断したり、裁いたり、避難することです。
わたしたちは、他人のことを間違っている、悪い、愚かだ、救いようがない、などと批判することがあります。その結果、その人を憎むようになります。しかし、憎んでいるということをごまかして、よくこう言います。「彼を憎んでなんかいないよ。彼の行為を憎んでいるだけだよ。」と。
これはまるで、わたしたちが間違いのない正しい判断を下すことができるかのようです。
わたしたちの下す判断は、罪人と罪とをわけることができるほどすぐれたものなのでしょうか。罪人を憎むことなく、罪という抽象的なものを憎むことができるほどすぐれたものなのでしょうか。実際には、とても難しいということがお分かりでしょう。
グルデーヴはよく言われていました。
「罪というのは、ちょうど赤ちゃんが成長していく過程において過ちを犯してしまうようなものだよ。」と。
こう考えられるようになれば、人を裁いたり、避難したりすることはなくなるでしょう。
たとえば、あなたの子供が何か誤ったことをしたとしても、いきなり罰を与えたりしないで、優しく注意するのではないでしょうか。それが他人になると、なぜ大騒ぎして、厳しく裁いたり避難したりするのでしょうか。さらには憎んだりするのでしょうか。
憎しみもまた、恐怖と結びついているものなのです。わたしたちはいつも、恐れている人を憎み、憎んでいる人を恐れています。
恐れがなければ、憎しみの入る余地はなくなります。避難したり判断したりしなければ、憎しみの入る余地はなくなるのです。
実はこれも、「あらゆるものが一つである」という哲学の中に学ぶことができるのです。この哲学は、グルデーヴ・シヴァーナンダの人生においても、カルマ・ヨーガにおいても、根本的な要素になっているのです。
エゴはラーガ、バヤ、クローダから構成されています
カルマ・ヨーガは、この「あらゆるものが一つである」ということを悟ることなしにはできません。「執着や恐怖や憎しみを放棄した」というごまかしを演じている限り、無私の行為をすることは不可能です。
わたしたちは、無私無慾になるために努力しなくてはなりません。無私無慾は頭で理解できるというものではないのです。頭で理解しただけでは本物の無私無慾にはなれません。エゴが中心になっているのですから。
では、どうすれば本物の無私無慾になることができるのかというと、それは、「自己」(エゴ)が真実ではないと悟った時に、ごく自然に生まれるのです。
わたしたち人間が、ラーガ(愛着)、バヤ(恐怖)、クローダ(憎しみ)の3つの要素を持って生れて来たということは、心理学者によっても明らかにされています。
これは、あらゆる人間が、三つの要素をその内面に持っているということです。あるいは、自己(エゴ)というのはこれら三つの要素で構成されていることでもあるのです。
ですからもし、この三つの要素を取り除くことができれば、自己(エゴ)はなくなるはずです。どちらかがなくなれば、もう一方もなくなります。
わたしたちはまた、この三つの要素は、年を経るにつれて大きくなっていくということも知っています。
なぜならば、自己(エゴ)はいつもわたしたちの中で形作られているからで、この三つの要素もまた強さや勢いをつけて行きます。ですから、子供の方が大人よりも恐れを知らないのです。子供というのは、瞬間的に執着したり、瞬間的に怒ることはありますが、大人のようにいつまでもそれに執着していることはありません。
グルデーヴの怒り方
グルデーヴの場合も同じでした。怒ったとしても、それはほんのつかの間のことで、瞬間的なものでした。グルデーヴは悪いことに対しては、決して我慢をなさったり、見て見ぬふりをすることはありませんでした。そういう性格でした。
大勢のスヴァーミーたちの中には、妬むことをがまんしたり、衝突を恐れるために、いつも笑っているような人がいます。
しかし、グルデーヴは違っていました。グルデーヴは、めったに怒ることはありませんでしたが、たとえ怒ったとしても1分ほどで鎮まりました。そして、怒られたあなたはグルデーヴのとてもよい友人になれたのです。不自然な見せかけだけで怒るということもありませんでしたし、我を忘れて怒りを表すということもありませんでした。それはまるで「怒りのスイッチ」を手の中に持っていて、それを自在に扱っているかのように見えました。
わたしがこのアーシュラムでグルデーヴと共に暮らした17年の間に、グルデーヴが本当に怒ったのを見たのは、たった2回だけでしたが、もう決して見たくはありません。それはとても恐ろしい光景でした。
怒りを表した後、グルデーヴはしかしやさしく微笑むと、すべてを忘れられたのです。怒るべき状況があったので、グルデーヴは「怒りのスイッチ」を入れたのです。その状況がおわればスイッチは切られたのです。なんともすばらしいスイッチではないでしょうか。
ですから、グルデーヴが怒ったとしても、それはわたしたちの怒りとは全く違うのだということを、ここでもう一度言っておきたいと思います。しかるべき状況がそうさせた怒りなのです。
これでお分かりのように、グルデーヴは根本的に、三つの要素から解放されていたのです。
聖者と呼ばれるような人たちにも「レーシャ・アヴィディヤー」つまり「わずかな無明」はあるものです。たとえて言えば、石油ランプのマントルのようなものです。
石油ランプの中でマントルが燃えている時、それはもう、使い始める前のマントルと同じではありません。燃え尽きてしまっても、手を触れなければ秦はまだそのままの形を残しています。
聖者もこれと同じようなもので、三つの要素 ― ラーガ、バヤ、クローダ ― を持っているように見えるかもしれませんが、それは外見上のことにすぎません。この三つの要素は「智慧の力」によって既に滅してしまっています。ただ、差し当っては肉体をまとい物質世界に生きていますので、この三つの要素が表面的にみられることもあるのです。
コメント:エゴを構成している3つの要素のうちのひとつ、クローダ(怒り、噴怒)。わたしたちは通常、感情的に怒ってしまうことが多く、自分自身の怒りの発散になっていることがほとんどのように感じます。シヴァーナンダさんのような怒りのスイッチを自在に扱うようなことはなかなか難しいものです。とっさの行動には本来の自分、素の自分が出ると言います。冷静に考える時間がなく押し迫った時にも正しい行動がとりたいものです。だからこそ日々のヨーガの積み重ねが大切なのかもしれませんね。
コメント:ラーガ(愛着)、バヤ(恐怖)、クローダ(憎しみ)はいつでも付き纏い、表には現れなくても隠れていて何かのきっかけで現れてきます。鎮まったと思ってもまた新しい三つの要素が支配します。シヴァーナンダさんのようにエゴから完全に解放されることは難しいですが、このエゴに気付き、どこからやって来るのか、どうしたら消し去ることができるのか、正しい道をヨーガが教えてくれるようです。