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ー本の紹介ー『シヴァーナンダ・ヨーガ』善本社 成瀬貴良氏編訳

2013.07.08

Category { サット・サンガ }
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20130701_100257本の紹介『シヴァーナンダ・ヨーガ』では、現在は専任講師であり、わたしたちをいつも導いてくださる成瀬貴良先生の名訳『シヴァーナンダ・ヨーガ』(善本社)の本文全てをそのままタイプしております。
月2回、8日と24日に配信。
著者である成瀬貴良先生よりご許可をいただいております。
先生の寛大なおこころに合掌。
そして多くの方の目に触れ、心のヨーガがひろまりますように!
今回は、第二部10章「神の道具となること」をご紹介いたします。ご興味をもたれた方は『シヴァーナンダ・ヨーガ』をお読みください。

 ニミッタ・バーヴァナ―神の道具になる
 バガヴァッド派の聖典の中に、短いけれどたいへんすばらしい話が伝えられています。それは次のような話です。
 あるとき、クリシュナは牛飼いや牛などの仲間と一緒に森の中を歩いていました。
 途中、彼らはたくさんのフルーツが実っている樹を見つけました。
 クリシュナは仲間をその樹のところに連れて行くと、こう言いました。
 「みんな!あの樹を見てごらん。わたしたちはいつになったら、あの樹のようになれるのだろうか。果実でいっぱいになれば、樹は頭を下げる。それなのに、人というのは果実でいっぱいになると、傲慢になってしまう。学問もなく貧しければ人は謙虚でいられるのに、学問を身につけたり、お金持ちになった途端に、周りの人たちを見下すようになってしまう。たとえりっぱな徳を持ちたいと思っていても、持った途端に傲慢になってしまうものだ。その点、樹は果実をつければつけるほど頭を下げて謙虚になっていく。そして、なんの駆け引きもなしにこう言うんだ、『どうぞ、ここに来て果実を取っていってください』と。ほんとうの意味でカルマ・ヨーガを行っているのは、このような樹だけなのかもしれない」と。
 カルマ・ヨーガを考えるとき、とても重要な言葉が二つあります。
 ニミッタ・バーヴァナとアートマ・バーヴァナです。ニミッタとは、「道具、手段」という意味です。たとえば、今のあなたの手の中にあるペンは単なる道具で、文字はペンによって書き記されますが、ペン自体は書き手にはなれません。書き手はペンを持つあなた自身です。

 汝は単なる道具となれ。

 『ギーター』の中で、「私はすべての行為の行為者である。わたしの道具となれ」と、クリシュナが語っているように、カルマ・ヨーガにおいては、あなた自身を神の手の中にある道具とみなすということが、たいへん重要なことなのです。
 人の手の中にある道具としてのペンは、これはこう書こう、これは書くのはやめようといった意思を持つことはありません。それでは、わたしたち人間は、ペンと同じようにまったく意識することなく、謙虚に神の手の中にある道具となりきることができるのものでしょうか。
 わたしはそれをグルデーヴの生涯で学びました。
 お世話していた十数年の間に、グルデーヴが「わたしは神の道具にしかすぎないんだよ」と言われるのを聞いたのは、おそらく二、三回だけだったと思います。しかもそれは、グルデーヴが周りの人たちに讃美されたときにだけ、控えめに語られたものでした。
 もし、本当に神の手の中にある道具であるならば、もはやそのようなことさえ言わないのではないでしょうか。ペンだって、自分が道具だなどと言わないでしょう。
 よく「わたしは神の道具です」と言う人がいますが、果たして本当に心からそう言っているのでしょうか。
 実は、その背後には、自分を際立たせようとする気持ちが働いていて、エゴが強い人になってしまう可能性が潜んでいるのです。自分が神の手の中にある道具であると本当に悟っている人は、そんなことを言ったり、考えたりすることなく、真に神の道具となるものです。
 わたしたち弟子は、グルデーヴが何を、どのようになさるのか、ということをしっかりと見ていましたが、グルデーヴは真実、いつもこのような気持ちで生きておられたのです。グルデーヴの行為には、個人的な動機というものがまったくありませんでした。
 人はその行為の中に利己的な動機がまったくないときにだけ、自分が神の道具であると自覚することができるのです。
 道具としてのペンは「good」「bad」「evil」という言葉を、何も考えることなく、まったく同じように書いていきます。なんの動機もなく、過去や未来について何も考えることなく、ただ左から右へ、右から左へと書いていきます。

 神の御心のままに生きる
 同様に、真のカルマ・ヨーギーもまた、大いなる存在がそうしなさいとお決めになったことを自然に行うだけなのです。わたしたちは、いつもそのことをグルデーヴの中に見てきました。グルデーヴがなされたことは、どんなことでも自然で純粋なもので、そこにはなんの打算も、利己的な動機もありませんでした。グルデーヴは、何かを特別に作り上げようとしたり、壊そうとしたことは一度もありませんでした。
 かつて、アーシュラムの経営が破綻しそうになったときグルデーヴは言われました。
 「アッチャー。そうかい、お金がまったくなくなってしまったのかい。分かったよ。それじゃ、食べるものはリシケーシの町に行って乞食することにしよう」
 それは、いとも簡単な口ぶりで、少しも落胆することなく言われたのです。
 きっとわたしたちだったら、苦笑いを浮かべたり、せいぜい我慢をするくらいのものでしょうが、グルデーヴはその状況をほんとうに楽しんでおられたのです。しかもこれは、グルデーヴが60歳をとうに過ぎたときに起こったことでした。
 「わたしは、もう乞食をしにリシケーシまで歩いて行けないかもしれないよ。すまないが、わたしのためにトンガー(馬車)を雇ってくれないかい」
 もし、わたしたちにトンガーを雇うお金があったなら
すぐにでもグルデーヴのためにここに食事を用意したでしょう。グルデーヴの召し上がる食事代など、トンガーを雇うよりずっと安上がりだからです。
 しかし、グルデーヴはわたしたちと一緒にリシケーシまで乞食をしにいくために、トンガーに乗る気でおられたのです。なんとすばらしいお心ではないでしょうか。

 アートマ・バーヴァナ  ― あらゆるものの中に神を観る
 もう一つは、アートマ・バーヴァナと呼ばれるものです。(ナーラーヤナ・バーヴァナとも言います)。これは、あらゆるものの中に神を観ることです。あらゆるものの中に存在する神に奉仕することです。
 ここで間違えないでほしいのは、「わたしがあらゆるものの中の神に奉仕する」と考えるのではなく、ただ「あらゆるものの中の神に奉仕する」ということです。
 なぜならば、「わたし」はすでに神の手の中にある道具に、形を変えてしまっているのですから。
 「神の道具であるわたしたち」の奉仕は、同じ普遍的な神、同じ普遍的な存在に向けられます。それは『バガヴァッド・ギーター』第18章の中でも説かれています。

彼から行為のすべてが生まれ、彼によってこの世界が満たさているとみなして、すべての行為を彼への捧げものとするものは成就する。

 あなたと出会ったすべての人が、その人たちを通して神に奉仕する機会を、あなたに提供してくれているのです。
 それはまるで、神ご自身がそういう形であなたに会いに来て、神を崇拝する機会を与えてくださっているようなものです。
こういう考えは『ギータ』などを通して、数え切れないくらい聞いたことがありますが、実際にはなかなか見られないものです。

 わたしはかつて、スヴァルガ・アーシュラムやマレーシアでグルデーヴと一緒に暮らしたことがあるという人たちから、グルデーヴが人に奉仕をなさっているときの顔というのは、それはもう、ほとんど官能的な表情にさえ見えたということを聞いたことがありました。
 もし、グルデーヴがあなたに何かを与えることができたならば、その顔は明るく輝いたことでしょう。グルデーヴが人に何かを与えられるときには、その顔や眼に感謝の気持ちが現れました。その表情はなにか特別で、「神に奉仕している」と言っているかのように見えました。実際にグルデーヴがそう言われたかどうかは分かりませんが、グルデーヴの顔が明らかにそう告げているかのようでした。あらゆるものの中に存在している神に奉仕することは、「祈り」の最高の形なのです。

 今までに述べてきた、ニミッタ・バーヴァナとアートマ・バーヴァナの二つの要素は、カルマ・ヨーガには欠かすことのできないもので、わたしたちはよく、それらについて、深く考えを廻らせることがあります。
 しかし、わたしたちがある教えを吸収するためには、ただ考えるだけではなく、実際にそのような精神を持った人と一緒に暮らす必要がある、とわたしは思っています。

コメント:「あなたと出合ったすべての人が、その人たちを通して神に奉仕する機会を、あなたに提供してくれている。」頭で理解して解ったようなつもりになりがちですが、実際はいつもこのような考えを持って接することはなかなか難しいものです。シヴァーナンダさんのように完璧でなくてもいい、道は長くとも少しづつ実践をし続けよう、そういう気持ちにさせられます。この本との出会いも神様が与えてくださったのですね。^^

コメント:「わたし」という個人的な感情で行為していることが殆どなのではないでしょうか。「神の道具」であるということは理解しようと思って理解できることではないように思います。全ての準備が整った時「神の道具」となるのでしょう。毎日に、出会った人に、与えられた物や場に『祈り』を捧げる気持ちで向き合うことは心を清く正してくれる行為ですね。気付けば…食事をいただく時も、会話する時もこの祈りを直ぐに忘れてしまいます。全てに祈りを捧げたいものです♡

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