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本の紹介 『シヴァーナンダ・ヨーガ』善本社 成瀬貴良氏編訳

2014.01.08

Category { サット・サンガ }
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本の紹介『シヴァーナンダ・ヨーガ』では、わたしたちをいつもあたたかく導きくださる成瀬貴良先生著、『シヴァーナンダ・ヨーガ』(善本社)の本文全てをそのままタイプしお伝えしております。 月2回、8日と24日に配信。 著者よりご許可をいただいての配信。 多くの方の目に触れ、心に触れ、奉仕慈愛の心「SERVE」「LOVE」「GIVE」からはじまる愛のヨーガがひろまりますように!今回は2部の16章〈自己放棄〉の項をお伝えします。
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16 自己放棄

 サーダナと解脱とは無関係
 わたしたちがもし、これまでずっと語ってきたサーダナのすべて―たとえば、奉仕、慈悲、聖典の学習、ジャパ、キールタン、瞑想など―を実践したならば、あるいは、ヤマ、ニヤマの教えに従って美徳や長所を伸ばしていったならば、悟りに達することはできるでしょうか。自由を手に入れることはできるでしょうか。できないとしたならば、それはなぜでしょうか。
 結局のところ、わたしたちの行為というのは、すべてエゴによってなされます。
 では、どうすればそのエゴを排除できるのでしょうか。あるいは、どのようにしたらエゴはなくなるでしょうか。
 たしかに、多くの修行をすることによって、りっぱな人になることはできるでしょう。それについては疑問の余地はありません。しかし、そこにはサットヴィックなことに縛られた、サットヴィック的人間になってしまうという危険性も潜んでいるのです。金の鎖に縛られるという危険性が潜んでいるのです。それは鉄の鎖でも、銅の鎖でも、銀の鎖でもありませんが、束縛されるという意味においては同じです。

 精神世界には、また別の危険性もあります。たとえば、一般会社ならば、エゴの強い人に対してはきっと、だれかがそのことを指摘すると思います。しかし、オレンジ色の衣を着たスヴァーミーならば、たとえエゴの強い人であっても人びとは崇拝するでしょう。
 「ああ、このスヴァーミーの語ることは、なんと威厳にあふれていることか!」と。
 もし、いいかげんで不親切であったとしても、人びとはこう言うでしょう。
 「彼はたいへん厳しい人だ。そうやって、わたしたちを鍛えてくれているのだ」と。
 このように、オレンジ色の衣を着た瞬間、わたしたちはすばらしいライセンスを手に入れることができるのです。

 たとえ、わたしたちがサットヴィックな人になって、精神的な修行をすべて行ったとしても、その結果として解脱できるという保証はどこにもありません。なぜならば、解脱というのは、修行の結果や効果でもないし、ある原因によってもたらされるものでもないからです。
 ですから、「解脱は原因の結果としてあるのではない。あらゆる原因によっても、あらゆる方法によっても達成できない」としばしば言われるのです。
 それは、たとえば、わたしたちが自らを眠らせることができないのと似ています。眠気が襲ってくると、だるくなり、ベットにいくことはできますが、わたしたちにできることはそこまでで、睡眠それ自体はおのずからやって来なくてはなりません。
 
 神の実現は神次第
 『カータカ・ウパニシャッド』は語っています。
 このアートマンはそれについて多くを語っても、語るのを聞いたとしても、知識がたくさんあったとしても、それ自体を得ることはできない。

では、アートマンを直感するには、どうしたらよいのでしょうか。

 アートマンや神がそうしたいと思ったときにだけ、あなたにアートマンに関する智を授け、神ご自身その御姿を現される。

 神の存在を悟れるかどうかを決めるのは、わたしたち人間ではなく、神ご自身なのです。マーラーを持ったら、“神を実現できるのは神ご自身だけです”という言葉を、マントラとして1000と8回唱えなさい。
 そうすれば、きっとある想念があなた自身の心の中に浮かんでくるでしょう。それは、「神さま、わたしの力では何ひとつできません。あなたの御前では無力です」という想いに違いありません。
 しかし、これは、わたしたちが怠けて何もしないでよい、と言っているわけではありません。わたしは、皆さんが、この「怠けて何もしないこと」と「神さまにお任せするということ」の違いを、ちゃんと理解してくださることを望みます。
 たとえば、実際に試してみるまでは、眼の前にあるその机を持ち上げることができるかどうか、だれにも分かりません。最初から、「わたしにはできません。どうぞ、神さまがおやりください」などと言うのは、怠け者の言うことです。
 サーダナ(わたしが今までずっと語ってきたすべてのサーダナ)は、できる限りの力で行わなければなりません。実際、自己実現という目標をもって、瞑想が、ジャパが、アーサナが行われてきたと思います。
 しかし、これらサーダナはエゴによって行なわれるために、かえって真実の自己を覆ってしまうヴェールとして、次々と重ねられていく結果になることもあるのです。すでから、サーダナを行えば行うほど、エゴが大きくなっていくこともあるのです。
 解脱とはエゴをなくすこと 
自己実現というのは、自己やエゴが完全になくなっているということ以外のなにものでもありません。わたしたちは「これが真実の自己である」と知ることはできません。しかし、「エゴ」のほうははっきりと知ることができます。
 エゴのもっとも強い人というのは、自分のことを、無私であるとか、エゴをなくした人であると思っている人です。
 たとえば、病人に対して自己放棄的な奉仕をしているかのようにふるまう医師や看護婦たちが世界中にいます。しかし、もしそれによってお金や名誉が得られないとしたら、彼らは喜んで同じことをするでしょうか。
 わたしたちはここで、ヨーガやヴェーダーンタについて語り合っています。そして、こういう勉強を通して、人類に無私の奉仕をしているともいえる、と思います。
 無私であるとか、エゴをなくすとかいうことは、そんなに簡単なことではありませんし、頭で理解できるようなものでもありません。
 しかし、わたしたちはエゴのなんたるかを知ることはできます。少しの容赦のなく自分自身を見つめて、今までにどれだけたくさん「自分が行ったことはエゴからではない」というふりをしてきたかを自覚してください。もし、それを認めないならば、それこそエゴです。
 
 守られたい、安全でいたい、認められたい、褒められたい、高い聖職の地位に就きたい、などと思うときにも、エゴや自我はあるのです。
 もし、こういう気持ちから離れたいと思うならば、おそらく天国にでも行くしかないでしょう。しかし、どこかに逃げ出したとしても、わたしたちはきっと、自分を高めたいという気持ちは持ち続けることでしょう。これらのすべてのことをしているのが「わたしなのです。「わたし」というエゴのたわむれなのです。
 同様に、神に祈りを捧げることさえも、「わたし」というエゴのたわむれなのです。
 他人との関係、わたしたちの習慣・思考・言葉・行為などはすべて、欲望・怒り・強欲・虚栄心・嫉妬・自己中心・憎しみなどによって形成されています。わたしたちの行う多くのことが、「エゴ」の働きであるこれら悪意や邪悪さをみることができてはじめて、それらを取り除くことができるのです。
 では、何によってこれらの性質を取り除くことができるのかというと、実は、それもまた「エゴ」の働きによってなのです。
 
人は変わるもの
 同じエゴが、二、三年前には「わたしは悪い人間だ」と思っていました。しかし、今では「わたしは正しい人間だ」と思っています。
 二、三年前、あなたは「わたしは○○○である」だと思っていたでしょう。しかし、今では出家して、「わたしは、スヴァーミー・○○○だ」と思っています。
 かつて悪意に満ちた人間がいて、彼自身そのことに気づき、努力して善い人間になったとしましょう。しかし、その人が再び悪意に満ちた人間に戻るのに、さほど長い時間はかかりません。なぜならば、変えたつもりのもう一方の側は、まだそこにあるのですから。
プラーナ文献の中には、このことに関する教えが数え切れないほど説かれています。グルデーヴもかつて、この教えについてとてもすばらしい指摘をなされたことがありました。
 グルデーヴは当時、さまざまな思い出とともに、インドの優れたスヴァーミーやヨーギー、聖者たちを紹介する“Asrams and Saints India”という本で取り上げる予定の聖者たちのリストを書き上げておられました。グルデーヴは、その本の中で取り上げた聖者たちの生涯、作品、業績などが書かれいるどのページに対しても、たいへんな崇敬の念をもたれていました。
 グルデーヴは、そのリストを次々とチェックしていき、やがて、あるスヴァーミーの名前のところに来ました。そのスヴァーミーはたいへんすぐれたヨーギーであり、聖者でもありました。しかし、あるとき突然、当時していたことや、これから始めようとしていたことなど、すべてを投げ出して結婚してしまったのです。
 そのとき、グルデーヴは言われました。
 「この人をどうしようか?彼はとても立派なヨーギーだったよ。だけど、結婚して・・・。それでも彼の名前を聖者のリストに入れようと思うんだ。聖なる人が俗なる人になったり、」悪い人が善い人になったり。人はたえず変わり続けるものだよ」と。

 人は、ラジャスィックな状態からサットヴィックな状態に変化すると思うかもしれませんが、変わる前の状態は依然として存在しているということを知っておいてください。グルデーヴが言われたように「人はたえず変わり続ける」のです。

 自己から自己実現へ
自己(エゴ)から自己実現(悟り)へ、とても微細で霊妙な〝飛躍〟があります。(でも、それはとても簡単なものなのかもしれません)。しかし、その〝飛躍〟は自分の努力だけでは不可能です。神やグルの恩恵によってもたらされるものだからです。
 わたしたちが今まで学んできたことは、わたしたちの努力で達成できることでした。しかし、自己から自己実現への最後の〝飛躍〟は、人間の努力ではありません。恩恵だけがそれを可能にしてくれるのです。ですから、この〝飛躍〟はいまだに、書物に記されていたり言葉で説明されたりしたことはなかったのです。
 グルデーヴでさえ、その状態を言葉で説明することを拒まれました。それは、経験されなければならないからです。経験として自分の身に起こらなければならないのです。
バーガヴァタ派の聖典の中に、このことが「ジャダ・バラダの物語」として説かれています。ジャダ・バラダは、有名な高弟ラフグナに教えを授けているときに次のように語りました。
「いま、わたしがお前に語っているこの智慧は、学習によっても、世俗間を離れていたとしても、聖者としても、禁欲生活を送ったとしても、あれこれの修行をしてとしても、決して得られるものではないんだよ。これらのすべての助けにしかすぎないのだよ。それは、聖なる人への奉仕によって、グルへの奉仕によって、偉大な人の聖なる足のほこりを浴びることによってのみ達せられるんだよ」と。
そのときにこそ、客観的なものから主観的なものへの微細な〝飛躍〟は起こるのです。
「悟り」「神の実現」「自己実現」というのは、わたしたちに長い間つきまっとていたエゴ、また、それを真実だと思っていたエゴが突然、どこかに行ってしまい、その後にアートマンを観るということなのです。
客観的な世界は突然、客観的な世界であることをやめてしまいます。しかし、何も見えなくなってしまうというわけではないのです。それどころか、わたしたちは、そこに神が輝いているのを観るのです。それはすばらしい光景です。世の中のものがすべてどこかに消え去ってしまうということではありません。そこに、わたしたちが「神」と呼んでいる何かを観るようになることなのです。今までとは違った何かを観ることなのです。
そこには、すべてのものがそのまま残っています。しかし、そこには何も残っていないのです。木は木のままです。男の人は男の人のままです。女の人は女の人のままです。建物は建物のままです。すべてのものがそのままで存在しています。しかし、そこには何もないのです。
 「これは縄であって蛇ではない」という悟りは、突然起こります。あなたが蛇を縄に変えるわけではありません。ずっとそこにあるものです。
 しかし、蛇だと思っていたものは、実は縄だったのです。それまでわたしたちは、この世界を世俗的な眼で見ていましたが、今はブラフマンの眼で見ているからです。
 あなたの心の中の眼が智慧をもてば、世の中のすべてがブラフマンになるのです。

―下線部解説―
サーダナ:修行
アートマン:真実の自己。プルシャとも呼ばれる。ヴェーダーンタ哲学におけるブラフマン(梵、大宇宙)に対する概念で、「個人我、小宇宙」と訳される。
マーラー:数珠。マントラを唱えるときなどに使う。シヴァ派はルドラークシャ・マーラー、アシュターンガ・ヨーガの一つであり、ハタ・ヨーガの重要な実習。
ヨーギー:ヨーガ行者。
ブラフマン:梵、大宇宙、大いなるもの。万物の背景にある最高原理。ヴェーダーンタ哲学(一元論)では、このブラフマンと真実の自己(ア―トマン)とは同一であると直感することを説く。

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コメント:人の心や身体は変化し続けるもの。変化前も後もすべてが自分の中に存在するものです。良いものだけを残し悪いものは排除したいと思いがちですが、すべてが隣り合わせに存在しているのだということを理解したうえでその変化を感じてゆきたいと思います。ヨーガを通じて毎回様々な気づきをいただきます。今年もヨーガに学び、ヨーガを正しく伝えてゆけるよう努めてまいりたいと思います。みなさんと共に歩む道が2014年も!!光り輝く道となりますように…歩み続けましょう♪

コメント:「善い人になりたい」と思い、ヨーガをしたり、真理の智慧を学んでも…自身の本質にあるラジャスィックな部分が全く取り除かれるわけではないということ。ヨーガを始めた頃、「何だか変わった気がする」と感じたことがありましたが、善い心にいつでも満たされているというより、心は次々と移り変わり、善い心と悪い心が出入りしているように思いました。表に現れているところだけを観るのではなく、その裏にあるものの存在を認めること。色々な場面で注意深く客観的にみれるように呼吸やアーサナの実践を通して内観することは外側に気付きやすくなっていくといいます。今年も勇往邁進!!ヨーガの恩恵をいただきましょう。

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