今回はグルについての章を紹介していきます。毎月8日・24日と2回に分けてきりのいいところまでをご紹介いたします。興味をもたれた方は『シヴァーナンダ・ヨーガ』をお読みください。
2 グルとは?
アーチャーリヤとは?
グルというのは、「*アートマン」(真実の自己)に関して単に理論を教えたり実践の指導をする人の事を言うのではありません。そのような人は*アーチャーリヤ(教師、先生)と呼ばれます。
わたしたちはアーチャーリヤから、「アートマンに関する知」を学ぶことはできますが、それはあくまで「アートマンに関する知」であって、「アートマンそのもの」ではありません。もちろん、そのような知識もたいへん重要であり、もしそういった知識がなければ、間違った方向へ導かれてしまうことさえあります。
書物に記されたものが「アートマンそのもの」でないのと同様に、実践もまた「アートマンそのもの」ではありません。知識や実践だけで「アートマンそのもの」にまで導けるものではありません。
しかし、これらの知識も、それを授けてくれるアーチャーリヤも、たいへん重要です。『ヨーガ・ヴァシシュタ』という聖典の中に、このことに関する興味ある話があります。
聖*ヴァシシュタは言っています。
「アーチャーリヤは『アートマンの知』そのものを与えてはくれないが、アーチャーリヤなしでは『アートマンの知』を得ることはできない」
アーチャーリヤというのは「アートマンに関する知」や「自己実現に関する理論や哲学」を理解しているだけではなく、実践の指導もしてくれますしどのような実習がよいかを勧めてもくれます。
そして、尊敬の念を持って接すれば、実践中に起こる様々な障碍を取り除いてくれることさえあります。
アーチャーリヤという言葉は、わたしたちが一般社会で普通に使っている、いわゆる「教師」という言葉とも少し異なるものです。ここでいっている「教師」というのは、どこかよそよそしく、打ち解けることもなく、教室の中を歩き回っては自分の不満などを吐き出すようにして言う人の事です。
インドには昔から、グル・クラ(グルの家)と呼ばれる、師と弟子とが一緒に暮らすシステムがあって、そこでは何のよそよそしさもなく、師から弟子へと知識や学問が伝えられたり、実践の指導が行われてきました。そこには、お互いの深い理解があると同時に、解放感のようなものもあります。これは、精神的なつながりが何もない、今日の学校や大学における「教師と生徒」の関係とは全く異なるものです。
アーチャーリヤと弟子との関係
英語では生徒や弟子の事を一般には「student」と言いますが、「pupil」という言い方もあります。「pupil」という言葉にはまた、「瞳孔、瞳」という意味もあります。太陽の光のもとに出れば瞳孔(pupil)は閉じますし、反対に、暗い所に行けば瞳孔は開きます。これと同じことがアーチャーリヤと弟子の間にも起こるのです。
たとえば、もし誰かが聴衆を前にして銀行を襲う方法をあれこれ語ったならば、退屈など全くしないでその話に夢中になるでしょう。しかし、「*ウパニシャッドの智慧」など語ろうものなら、瞳孔どころか、瞼さえ閉じてしまうのではないのでしょうか。
つまり、アーチャーリヤが光り輝いていれば、もうそれ以上の光が入らないように弟子は瞳孔を閉じてしまいます。反対に、もしアーチャーリヤが暗く、おかしく、奇妙な人であれば、瞳孔はしっかりと開くのです。このことから、くだらない詰まらないことの方が、価値あることよりもずっと簡単に吸収しやすいということが分かると思います。「pupil」とはそういうものです。
グルデーヴ・シヴァーナンダは、そのことをちゃんと分っていたので、映画や劇場に行ったり刺激的な生活を送りたいという大衆心理や、若い求道者たちの気持ちをも理解していたのです。もし彼らを無理やりヴェーダーンタの教室に入れたとしても、おそらく眠り込んでしまうであろうということは分かっていたのです。
そこで、グルデーヴは面白い方法を考えだされました。それは*ウパニシャッドの中の対話や討論を、実際に演じてみせるというものでした。すると、いつもなら眠ってしまう彼らも、ウパニシャッドの教えが説かれると坐り直し、どう展開していくのか、じっと見入っていたのです。これがグルデーヴの行ったとてもユニークな方法でした。その後、これらの経験をもとにして、誰でも参加したり試したりすることができる「ヨーガ博物館」が創られました。
私達が依然として教える者と教えを受ける者との関係でいる限り、2人の間には、単に情報や知識(information)の伝達があるだけです。
“information”とは、あなたの中に(in)、ある形を作り上げる(formation)という意味です。これら知識や情報の断片は、徐々にあなたの中に入り込んで形あるものになってゆきます。そして、あなたがその形に十分に満足してしまったならば、あなたは成功することはありません。なぜならば、あなたはその知識によって、あるイメージを作り、自己実現に関して、そのイメージを真実として扱うようになってしまうからです。
もし、あなたが自分の中でつくられたこのイメージに夢中になったならば、人から様々な理論や教説が伝えられたとしても、自分のイメージに永遠にしがみついて、それから離れられないでしょう。あなたは一生懸命に自分勝手なイメージをつくりあげ、その中であらゆる変化に抵抗するようになります。そうしているうちに、やがてあなたは失敗してしまうでしょう。
しかし、この自分勝手なイメージがつくられたとしても、それが単にアートマンについての知識だけだと悟ることができたならば、知識を求める段階は終わって、あなたのなかに魂が入って智慧のひととなるのです。そのときあなたの前に誰かが現れるでしょう。その人がグルなのです。
『イーシュヴァラ・ウパニシャッド』の中に謎めいたマントラがあります。
「無知」を崇拝する者は、地獄へ堕ちる。しかし、「知識」を崇拝する者は、より恐ろしい地獄へ堕ちる
*アートマン:真実の自己。プルシャとも呼ばれる。ヴェーダーンタ哲学におけるブラフマン(梵、大宇宙)に対する概念で、「個人我、小宇宙」と訳される。
*アーチャーリヤ:ヴェーダなどの学問を教える師。教師。阿闍梨(あじゃり)。
*ヴァシシュタ:『ヴァシシュタ・サンヒター』を書いた聖仙の名前。
*ウパニシャッド:奥義書。紀元前8世紀頃から数百年にわたって作られていった哲学の叢書。
コメント:ヴェーダーンタの伝える方法を単に読み上げるだけでなく実際に演じて見せたシヴァーナンダさんのアイディアはその当時誰もおこなっていなかった画期的な事でした。
伝えてゆくには単に情報提供をするだけでなく、聞く者の目を開くようアイディアをもって伝えることも大切なのですね。
コメント:私たちが世俗で生きてゆく限り、押し寄せる欲求を満足させるために行為し、世俗的な楽しさを求めてより刺激の強い方へと動いてしまうのではないでしょうか。欲求があるから「何かを学びたい」という思いが沸き立つのかもしれません。何かを学ぼうとした時、或いは普段の何気ない生活の中にも教師と生徒という関係があるように思います。そこから得た情報や知識は私たちの中でイメージとなり勝手に膨らませ固定されてしまうとそこから離れられず苦しみとなってしまうのかもしれません。「アートマン」(真実の自己)を知るための知識だけと理解することが出来たならば心の扉が開かれるのかもしれません。ん~難しいですね。だから面白いのかもしれません♪