トリャンバカム・ヨーガ・センターについて ヨーガ クラススケジュール 料金について よくあるご質問と体験者の声 アクセス/コンタクト 講師プロフィール
news/blog
お知らせ
YOGA生活
支援活動
レッスン前の話
クラスの様子

Warning: strip_tags() expects parameter 1 to be string, object given in /home/users/1/moo.jp-tryambakam/web/cms/wp-content/themes/tyc/archive.php on line 20

Warning: include(/home/users/1/moo.jp-tryambakam/web/cms/wp-content/themes/tyc/.inc) [function.include]: failed to open stream: No such file or directory in /home/users/1/moo.jp-tryambakam/web/cms/wp-content/themes/tyc/archive.php on line 21

Warning: include(/home/users/1/moo.jp-tryambakam/web/cms/wp-content/themes/tyc/.inc) [function.include]: failed to open stream: No such file or directory in /home/users/1/moo.jp-tryambakam/web/cms/wp-content/themes/tyc/archive.php on line 21

Warning: include() [function.include]: Failed opening '/home/users/1/moo.jp-tryambakam/web/cms/wp-content/themes/tyc/.inc' for inclusion (include_path='.:/usr/local/php/5.3/lib/php') in /home/users/1/moo.jp-tryambakam/web/cms/wp-content/themes/tyc/archive.php on line 21
12.05.15

Category { トリャンバカム・ヨーガ・センター盛岡 }
Comments  { 0 }

瑞
せせらぎ ートリャンバカム・ヨーガ・センター月刊紙「みるよむ」6月号記事よりー
 瑞色の川の流れを見ています。永遠に、いつまでも続く流れが気持ちを安らかにします。トリャンバカム・ヨーガ・センター会員の皆様、また、こうしている今も邁進されている皆様方全ての方々を浮かべています。今日の日も健やかに、元気でしょうか。今、どんな顔で?優しい微笑みで今いらっしゃるのなら・・・いいのですが…。微笑みは◎(マル)です。私たちの周りに存在する全てが、あらゆるものすべてがこの身を包んでいまから、微笑でいられるということは、あらゆるものとのバランス関係が、とてもよいという証(あかし)ですね。
 そこに在るからよい、無いからダメ。或いは居心地がよい、居心地が悪い。み〜んな、ただ目に映しだされた現象。分類し評価を降してしまう。そして自己の心の評価が正しいと思い込むからいつもどっちか?という比較と評価の沼に陥ってしまう。目に見えたものに惑わされない、真の目が欲しい、そうしたら、どんなに心静かに、全てを赦し、全体性を捉えることができるでしょうか。目を閉じて…本当の「感じ=気付き」を静寂の中から感じたいものですね。
 今ひとりとなって皆様と経過してきた記憶や、経験してきたあらゆる感覚が力に変化しています。過ぎた日は思い出ではなくて、過去は常に今で、これまでのレッスンの一日一日が、今に通じていると身をもって体験しています。また、年度末に皆さまからいただいた言葉や文字、仕草や、記念品、餞別。これらもまた、強い印になって刻まれたので、いつもここに在ります。過去というのは存在しないんですね。未来もまた存在しない。今こそが未来への一瞬一瞬だと、理解していたつもりでしたが、今よくよく理解しています。これを、未来にこころを閉ざしがちな被災者と、すこしづつ理解し合っていきたいです。
 去るGWは、「三陸のともしび」(被災地復興支援有志の会)毎月の活動とは別に、被災地をツアーが実施されました。(この活動は、会員様ひとりひとりが参加しています。直接活動する私たちのはたらき全ては、皆さまの力によって生まれました。報告することしか私達にはできませんが、いつもサポートをありがとうございます。)私たちは今年2度目の桜景色を、日本の美しい景色の醍醐味を味わさせていただきました。
 活動の内容は、被災者に何かをして差し上げるということではありません。私達が皆様のサポートの元、継続実施していくことは、「知る」「見る」「理解する」を基盤にしています。理解できたときに初めて、自然に「未来」を思いやってあげることができ、言葉や仕草、品物やご寄附をすることができるだろうと思うからです。

 今回は、今月から始まった被災者さん自身がガイドする「津波ツアー」に参加しました。田老地区と田野畑で行われています。「よく、語れるなあ」と。生々しく、ガイドさん自身も涙を流して話をしています。こうしてまで語るその姿勢にはどんな気持があるのだろうか。「忘れてはいけないこと」「伝えることなんだな」と心の深くに印しました。
他、小本仮設団地内に設置することとなった4−8本部を整えました。仮設の皆様の憩いの作業場となるように工夫します(まだ途中でおわりました。少しづつです)。この部屋の内装に、みなさまからの餞別を当てさせていただきました。また、仮設の周りにハーブを植えました。これも餞別の一部でできました。
何らか工夫し、使う方々にとって、豊かな時間を育む場所にしていただきたいものです。
 次回は6月9日10日の㈯㈰です。11日に近い、第2週目の週末が「三陸のともしび」会です。肌で感じるためにいらしてください。海を前に、山を前に、それと同じように、人々と共に過ごす時間です。(詳細は「三陸のともしび」ブログをご覧ください。)

 こちらの生活?状況ですか?…はい。満開の桜だったといっても、山の桜はおくゆかしくて、まだ寒くて褐色の山々を、ぽっ、ぽっと染めて、周辺を「あたたかみ」に包む程度なんです。わぁっとした桜並木はありません。控えめですが処々の「それ」が何とも言えないのです。そうして山の全体はというと、うっすらと仄かに淡い、淡〜いピンク色です。梢の芽吹きがそんな風な色になって目に映るんです。淡いピンクに若い新芽のこれまた淡い萌黄色が…「ああ、初々しい」の一言です。山肌がうっすらベールを纏ったような、そのなんとも言えぬ色合いに涙が溢れてきます。少し大袈裟に聴こえるかもしれませんが、本当に泣けてきます。山はまるで恋をして頬を仄かに赤くする少女のようです。
で、そんな中で自分はというと、物事の結果を急いだり、先の事ばかりをあれこれと考える心や行為、そういった存在そのものが気恥ずかしくなってきます。運転する私は思わずアクセルを緩め、時の経過を心から大切にしたいと、そう感じる心に変化します。
…不思議です。山は黙って在るだけなのに、私の心は盛岡から岩泉に向かう2時間半で、すっかり浄化されてしまいます。
 今ここにいるこの自分。「こうして在る」ということ。
皆様には、たくさんのご報告があるのですが、相応しい言葉がありません。一緒にヨーガをしていた時と変わらぬヨーガの日々ですが、あえて違うことをあげるなら、「独りだ」ということです。孤独感とは違うので安心してください。「独り」になって聞こえてきたせせらぎは、生命が在るという「熱」でした。
ヨーガは響きあい。響きは流れとなり、人と人のあいだで起り感じやすいですが、それは間に起った流れの現象だったということ。何もなくても交感されるエネルギーは、生きているという「熱」だったと。今独りの身体が、おっきな自然を前にヨーガをしていて感じることです。人と人でもすばらしい熱の交換がありますが、無言の、どんなに発してもすべて吸い込まれ、一部となってしまう。せせらぎに委ねてみて、生き合っているという「熱(生命体同志)」を感じています。
 週の㈫に向かい、㈮に盛岡に戻っています。週の半ば3日間を仮設住居に訪れては、宅配されてくる荷物の整理と被災者の「手仕事場」つくりと食事作り、子供たちとハーブを植え、畑の手伝い。合間に瞑想やヨーガの時間を設けて行っているところです。朝に夕に、散歩をし、岩泉百景を歩きます。月に一度、東京へ行く日は、自分のカラダが長いトンネルになったような気持ちでいます。訪れることで互いの場所に、互いの雰囲気が送り合えたらいいと想像して楽しんでいます。                     来月へ続く。


12.05.15

Category { サット・サンガ }
Comments  { 0 }

7日目~インドの洗礼を受け、悪いものを全部出し切った私は、ちょっぴり身軽になり、やっとヨーガ生活をスタートすることができました。
今回は、私のある一日を紹介します。
5:00 瞑想 シヴァナンダアシュラム   13:30 サンスクリット語クラス
6:00 プージャ(朝のお祈り)      15:00 ミュージッククラス
7:00 ガンガー沿いを散歩        17:30 キールタン、アラティー
8:30 アーサナのクラス         18:30 夕食 あき子さんとヨーガ談義
10:00 軽く朝食をとり、自由時間    (19:30 時々 サットサンガ)
12:30 昼食 22:00 就寝
朝のシヴァナンダアシュラムでの瞑想は、シヴァナンダさんが眠っているサマディーホールで行われます。マントラから始まり最後は、英語でレクチャーが流れます。
ひんやりとした神聖な空気の中での瞑想は、特別なものでした。
今でも目を閉じればそこに行くことができます。
一度、目で見るとイメージがしやすいです。みなさんもきれいな場所に行った時のことを思い出してそこをイメージしながら目を閉じ、座ってみてください。

朝の散歩


12.05.08

Category { お知らせ }
Comments  { 0 }

IMG_4411

IMG_4408

本日、5月6日(日)Y.L.S.主催月例ワークショップが開催されました。

第3弾となる今回のテーマは、著者と読む『インドの叡智』です。

Y.L.S顧問講師でいらっしゃる成瀬貴良先生が書き下ろした『インドの叡智』をダイジェズト版で自らお伝えいただきました。

現在、世界中で行われているヨーガですが、いつ頃、どのように広まっていったのでしょうか。

ヨーガのルーツは何だろう?

今日、ヨーガの流派や種類は色々あるけど、別なものなのだろうか?

インドの伝統的なヨーガってどんなもの?

そんな風に、素朴な疑問を持たれたことはありませんか。

今回は、そんな疑問の答えが明らかになる講義で、主にヨーガの起源、流派と教典、そしてハタ・ヨーガの起源に関するものでした。

初めて“ヨーガ”の姿が見られるのは、今から約五千年前のインダス文明時代まで遡るという説もありますが、ヨーガの起源には諸説あります。

代表的なものが、インダス文明説、ヴェーダ説、ウパニシャッド文献説です。

しかし、この時代のヨーガは、今日私たちが行っているハタ・ヨーガではなかったそうです。

いくつかのヨーガの流派には、それぞれ教典が伝えられていますが、それぞれ時代が異なります。

ヨーガの流派には、古典的なラージャ・ヨーガから、哲学的な要素を多く取り入れられているもの、実践的なものまで様々あります(ジニャーナ・ヨーガ、カルマ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、ハタ・ヨーガなど)。

精神的な要素が強い流派が多くある中、アーサナ、プラーナーヤーマを中心に構成されるハタ・ヨーガはタントラ的で、今日も世界中で広まっています。

今回のワークショップは、どなたでも(ヨーガをされていない方でも)理解を深めることができるよう解説頂きました。

興味を持たれた方、より詳しくお勉強されたい方は、是非『インドの叡智』を読んでみて下さい☆

また、11月ごろにも同様のテーマで開催予定ですので、聞き逃してしまった方は是非次の機会にいらしてください。

次回6月3日(日)は、プラーナーヤーマがテーマです。お楽しみに☆


12.05.08

Category { サット・サンガ }
Comments  { 1 }

シヴァーナンダ③
愛と奉仕に生きた聖者の教え『シヴァーナンダ・ヨーガ』
今回(毎月8日、24日)は、「弟子の教育」の後半を紹介します。毎回きりの良いところまでを紹介しますので、興味を持たれた方は「シヴァーナンダ・ヨーガ」をお読みください。
**********************
前回のつづきです
弟子の教育 
 シヴァーナンダはしばしば、瞑想には、奇跡的な近道や魔法のように簡単にできる方法などはないと語っていました。また、だらだら行なったり、注意を欠いて行っていたのでは、うまくいきません。
 ゴールは、細心の注意をはらい、興味をいだいて実践している人に自然に訪れるのです。
 シアーナンダは大声を発したり、怒りをあらわにしたり、人に嫌な思いをさせるようなことは決してしませんでした。たとえ、厳しい言葉が必要なときでさえも、叱った後は、すぐにおもしろいジョークやキャンディが与えられました。
 シヴァーナンダはときどき、精神的目覚めのために、愚かさを気づかせるために、ショックを与えることがありました。それは、弟子が正しい道を歩めるようにと、どんなことに対しても情熱的なシヴァーナンダがとられた苦渋の選択だったのです。しかし、一度でもこの試練を通った人はとても純粋になるのです。
 かつて、アーシュラムにヘビー・スモーカーのスヴァーミーがいました。ある日、彼はタバコを切らしていたため、注意力が散漫になっていました。シヴァーナンダはそのことに気がつくと、近くにいた弟子にタバコを買いに行かせました。タバコを買って来ると、そのスヴァーミーがいない間に彼の枕の下に置いておくように指示しました。
 たまたまそれを見ていた弟子たちは、いつもの教えとは異なり、シヴァーナンダがどうしてそのスヴァーミーにタバコを買ってあげたのかと不思議に思いました。
 しかし後で、シヴァーナンダがどうして自分が欲していたタバコをわざわざ買ってくれたのか、そのわけを知ったとき、そのスヴァーミーは自分を恥じ、自らタバコを断ちました。
 そのとき、そのスヴァーミーははっきりと、精神求道者にとって、自己をコントロールするということがいかに大切で必要なことであるかということを悟ったのです。

 シヴァーナンダが弟子に対して取った方法は、時には甘く、時には苦く、時には怒り、時には強烈に、時には心配させるというものでした。しかし、シヴァーナンダはグル自身が実際に行いということがいちばん良い指導方法であると分かっていたのです。ディヴァイン・ライフ・ソサエティの記念すべき第一回の報告で、たいへんおもしろい弟子への指導方法が述べられています。

「俗世間を離れた七人の弟子がいました。彼らは1936年に完全な出家者として認められた弟子たちでした。彼らは、シヴァーミージー自身によって、あらゆるヨーガの行法で指導されました。このアーシュラムには、サンニャーシンやサードウ、病人や他人に奉仕することによって修行者みずからが純粋になれる環境が整っています。慈愛、宇宙的愛、忍耐、適応、アートマン、その他さまざまなことを学べるたいへんすばらしい場です。若い人たちは奉仕と瞑想を一緒に行うべきです。さまざまな修行がありますが、無私の奉仕を通して得られる実践的な知識が、求道者にとっては欠かすことができない財産になります。クダリニー・ヨーガを学んだり、クンダリニーを覚醒させようと思ってシヴァーナンダのところにやってきた求道者たちがいましたが、彼らが病気の人や年老いた人の世話をしなさいと言われたとき、唖然としてしましました。最初、彼らはそれを聞いたとき顔をしかめましたが、後にはそのような奉仕が大切であることを悟りました。」
「決められた方法によって心が純粋になったとき、クンダリニーは目覚めるのです。修行者は、アーサナ、プラーナーヤーマ、ムドラー、バンダ、集中、瞑想を学び、実践します。スヴァーミージーは彼らの疑問を明確にし、ヨーガやヴェーダーンタ哲学における難しい問題点を説明します。しかも、わずかな言葉でその要点を示してくれるのです。
 スヴァーミージーは修行者たちを、その気質や才能や個性に沿って指導しました。シヴァーミージーは他のグルがするように、すべての人に同じ薬を投与するようなことはしませんでした。ヴェーダーンタの学生にはヴェーダーンタを講義しました。ラージャ・ヨーガを学びたいと思っている弟子にはラージャ・ヨーガを教えました。信仰の道を歩もうと思っている弟子にはバクティー・ヨーガを指導しました。瞑想の深い段階に達した弟子にはまったく他の作業をさせることはせず、ただ深い瞑想に入らせておきました。」
「すべての弟子は、介護の仕方、病人の世話、薬の調合などを最初に学ばされました。四時にはラーマ・アーシュムの建物内でみな一緒に瞑想を行いました。ギータやウパニシャットの短い話があり、最後にスヴァーミージー自身によるサーダナや瞑想の指導がありました。そして、外部の人たちもこの学習には自由に参加することができたのです」

 シヴァーナンダは実に多くの人たちをサンニャーシンに導きました。インドの宗教史上、これほどたくさんの人たちをサンニャーシンに導いた聖者は他にいないのではないでしょうか。男性も女性も、余命いくばくもない老人も、ようやく大人になりかけた十代の子どもも同じようにサンニャーシンに導き、オレンジ色の衣を授けました。インド人はもちろん、外国人もサンニャーシンに導きました。世俗的な地位や責任を担っている人には、郵便や目には見えない精神的な支援でサンニャーシンに導きました。
 シヴァーナンダはこれらの人びとの心を変え、世俗間で暮らしてもよいが、それに染まってはいけないことを教えました。
 
 シヴァーミージーによってサンニャーシンに導かれた人たちの中には、時に道から外れ、不名誉な振る舞いをする人もいました。またあるときは、サンニャーシンの衣装を脱ぎ捨てて世俗間に戻り、結婚する人も現れました。
 人びとは、シヴァーナンダが若い人たちを大勢サンニャーシンに導きすぎたと批判しました。
 ある在家の人がシヴァーナンダに訊ねました。
「スヴァーミージーはほんとうに、こんなに若い連中がアーシュラムの意義を理解し、アーシュラムのやり方についていけると思っているのですか」
 さらにこの男は、若いサンニャーシンが墜落するであろう例を挙げました。
 シヴァーナンダは優しく笑って言いました。
「どうしてそう思うのですか?わたしはいくらでも成功した例を挙げることができますよ」
 そして、真剣な顔つきで付け加えました。
「すでに彼らはあなたの尊敬に値するまでになっていますよ。少なくとも一日はサンニ
ャーシンになったのです。彼らは勇気を持って両手を挙げて言ったのです、『わたしは三界の快楽を放棄します』と」
 ある若者がサンニャーシンになって失敗したからといって、若いうちにサンヤーシンになることが適切ではないと考えるべきではありません。事実、立派なサンヤーシンはみな、若いころに出家しているということが分かるでしょう。どうして年老いてからサンヤーシンになどなることができるでしょう。

*********************

時に甘く、時には苦く、時には祝福し、時には怒り、時には強烈に、時には心配させる。自らが実際に行うことがいちばん良い方法だということ。全てを受け入れ、よく観察し、一人一人にあった効果的な方法を与えるシヴァーナンダさんはこうして大勢の人たちをサンニャーシンとして導きました。子供一人をこの様に育てることすら難しいと感じます。人生が修行の場だと理解すれば、シヴァーナンダさんの「無私の奉仕を通して心は純粋になる」という教えを通して得られる実践的な知識を意識的に見つけられるのではないでしょうか。ここに真実に生きてゆく術がありますね。学び続けましょう☆


Page 3 of 4« prev1234next »