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18.10.23

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人類への奉仕、すべてを平等に愛する世界を生きますが、それらに付随してはなりません。
自己の内に生きる。これは聖典『ギーター』の要点です。

Gita
 舞台は戦場。王座を巡り親族同士の争いが戦争にまで拡大しています。
戦闘を目前に王子アルジュナは親族が殺し合うことを嘆きますが、友人であり神の化身として現れているクリシュナが、そこでヨーガの道を説き説得します。

 聖典『バガヴァッド・ギーター(Bhagavat gItA)』。神の歌と訳されるそれは、人間の生き方、人と人の間で生きる日常に説かれた幸せに生きる方法を説いています。
解脱の境地に至る道、あるいは方法をヨーガと呼び、昔からのヨーガの意味を大きく広げました。
具体的には、【知識の道(ジニャーナ・ヨーガ)】【行為の道(カルマ・ヨーガ)】【神への献身の道(バクティ・ヨーガ)】の三つのヨーガを説きます。
 先ず「知識の祭祀は財物の祭祀よりも優れ、すべての行為は残らず知識において簡潔する」「すべての悪人のうちで最も悪人であるとしても、あなたは知識の船により、すべての罪をわたるであろう」「あたかも燃火が薪を灰にするように、知識の火はすべての行為(業)を灰にする」と言って知識の重要性を説き、嘆かないでいいことに嘆いていると説得します。
 続いて説かれていくのが、カルマ・ヨーガとバクティー・ヨーガです。
 今日、23日の言葉に対応するでしょう。

serve humanity
love all equally
 クリシュナはアルジュナに勇敢に戦うことを命じましたが、それはアルジュナがクシャトリア階級であったからです。
『ギーター』はバラモン中心の伝統的な教えに背くような、四ヴァルナ制度を認めながらも低いカーストの人をも救済されるという教義を展開しました。
クシャトリアにとっては勇敢に戦うことが本務(スヴァ・ダルマ)なのです。ここで大切なのは、行為そのものの優劣を詮索することではなく、自分の本務を遂行することの方にあります。そしてその本務に「我」という思いを入れないで行なうことがカルマ・ヨーガなのです。
アルジュナの場合は戦うことでしたが、これをわたしたちの仕事や義務に置き換えれば、それがそのままカルマ・ヨーガになります。

 また、カルマとは「行為と行為の結果の関係」です。
古代よりインドでは今の人生を一回きりの問題としてではなく、前世や来世も含めたとても長いサイクルでとらえました。行為の結果は必ずしも現世で現れるとは限らないと考えたのです。
 カルマの問題を長いサイクルで考えると、今の自分の気質や容姿や人間関係などのさまざまな条件はこの世に自分が生まれたときからの結果だけではなく、過去世での行為の結果をも加わっているということになります。
また、現世での行為の結果は現世だけではなく、来世以降に持ち越されることもありますので、その清算をするためにはまた生まれ変わらなければなりません。
 この繰り返しが輪廻転生です。このようにカルマと輪廻転生はとても密接な関係があります。転生の問題はカルマが土台になっているのです。

attached to it.
 この世に再び生まれて苦労を繰り返すことを恐れたインドの人たちは、どうすれば行為の結果が残らないで済むかを考えました。そして、ある行為が何らかの結果を生じるのは、そこに「我=アハンカーラ」があるからだと気づきました。行為の中に「我」という想いが入ったとき、その行為は結果を残すのです。「我」という想いがなければ、行為の結果は残りません。カルマの秘密は行為そのものよりも、行為の中の「我」への執着にあったのです。
 無執着の行為によって、清算すべき結果が残らなければこの現象世界に生まれ変わってくる必要はなくなります。つまり輪廻転生からの解放、いわゆる解脱です。「無執着の行為」こそが、「行為と結果」とからの解放であり、カルマ・ヨーガの説く道です。

 バクティとは「献身、信愛、帰依、信仰」という意味です。バクティ・ヨーガとは愛する人や大切な人へ献身的な愛や行為を捧げるように、最高神としてのヴィシュヌ神やシヴァ神に信愛を捧げることによって解脱することを説くヨーガのことです。
ここで言うバクティの愛というのは漠然とした人間愛やとらえどころのない宇宙愛といったものではなく、わたしたちの身近にごく自然に見られるように愛する人、好きな人へ捧げる信愛のことです。この信愛に対し最高神は信者(バクタ)にあらゆる恩恵を与えてくださるというのがバクティ・ヨーガの主旨です。
 『ギーター』は実践・行為の道であるカルマ・ヨーガを力説しますが、実はそれより多くの力をそそいで説いているのが、神への信愛の道バクティ・ヨーガです。
先のカルマ・ヨーガが倫理的あるいは行動的であるとするならば、バクティ・ヨーガは信仰的あるいは情緒的な要素の強いものといえます。また、カルマ・ヨーガが無私の行為によって、ラージャ・ヨーガが瞑想によって解脱に至るという「方法」と「目的」を持っているのに対し、バクティ・ヨーガは神を信愛するという行為自体がそのまま結果になっているという点で最も優れているといわれています。
 

Love in the Self.
 神はひとり一人の内に存在しています。気付きという認識が内にあるエネルギーで、それを見る源こそが内なる神、自在神です。


18.10.23

Category { 教室トークsingle 月刊新聞 }
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毎日みなさんとヨーガをして坐っているトリャンバカム・ヨーガ・センター
下の階で(狛江泉の森会館の2階)素晴らしい作品を目にしました。
㈪〜㈬まで。ぜひご覧に。
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リキタ・ジャパがありますが、まったくそうした瞑想法に関わられてはいないお母様の作品。
リキタ・ジャパはお写経のように、グルからもらったディークシャ・マントラやオーム、その他マントラや聖典を書き記すもの。インドの神仏画を小さな文字で描写したりします。瞑想法のひとつとして、日々の修行のひとつとして耳にしたこと、目にしたことはありましたが、こうして、実際の日常生活で、美しく作品とされて共に暮らしている日本版を初めて見ました。
竜の子太郎の絵であればその物語が綴られています。
蕪の絵であれば、お野菜の名前が綴られていました。


18.10.22

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感謝と賞賛はあなたの敵を友人に変えます。あなたは愛で満たされるでしょう!
※訳へのアドヴァイスを同志からいただき更新しました。合掌ॐ

実直に、誠実に生きることは自分の弱いところや欠点もよく知っているということです。
心に尋ね、伺うことについてこんな言葉を残してくださっています。

1. 他人からあなたの欠点を指摘されたらそれを認め、それらを根こそぎにしてしまいなさい。
そして、欠点を指摘してくれた人に感謝しなさい。
それにより、永遠の幸福を得ることでしょう。

2. 欠点を指摘したとしても、決してその人の欠点を取り除くことはできません。
涙が彼を盲目にしてしまい、自分の欠点を見ることができないからです。涙でいっぱいになった眼では、眼の前にあるものも、自分の内面にあるものも見ることはできません。
自分の内面の欠点を見極めるには、しっかりとした冷静な心が必要です。

3. 最も大きな弱点は疑うということです。
最も大きな欠点は揺れ動くということです。

Tryambakam Yoga Center


18.10.21

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親切で愛情のあることはチャリティーです。
苦しんでいる人へ言われた親切なことばはチャリティーです。

Charity
チャリティーにどのような訳当てましょう。
親切にしよう、愛情を注ごうと思ったとしても、それで良い。しなければ惰性でしかないと言った人がスヴァーミー・シヴァーナンダです。
『ギーター』でも「行為しないで、心の感覚の対象を覚えて坐っている人は愚かな人だ、偽善者だ。」
「心の意識(マナス)によって感覚器官を抑制して、行為する人(カルマ・ヨーガ)は感覚制御して坐っている人より優れている。」
といっています。

一口でスヴァーミー・シヴァーナンダという方を表すとしたら、「奉仕の人」といえるのではないでしょうか。
もちろん、偉大なヨーギーであり、近年まれに見る聖者であることは間違いありません。
スヴァーミー・グルデーヴ・シヴァーナンダは精神世界に入る前はマレーシアで医師として働いていました。しかし、そのから彼の奉仕の心は大きなものでした。治療費を払えない患者には無料で治療をし、貧しい人にはポケットマネーさえ与えていたということです。
後にリシケーシに来てからも、彼は年老いた修行者や病気のヨーギーのために尽くしました。サンタクロースのように大きな袋を担いでは彼らのところに行って薬や栄養のあるものを与えました。
一方で、自分にはたいへんな苦行を課していました。早朝に、凍るようなガンガーに入っては太陽が昇るまでマントラを唱えていたということです。奉仕と修行は並行して行なわなくてはなりません。
シヴァーナンダ・アーシュラムのスローガンともいえる「Serve, Love, Give」の筆頭にあげられているのがServe(奉仕しなさい)です。
シヴァーナンダ・アーシュラムはヨーガを学ぶためのアーシュラムです。しかし、グルデーヴ・シヴァーナンダは、ここリシケーシのシヴァーナンダ・アーシュラにヨーガを学びに来た人たちに第一に伝えたかったのがServe(奉仕しなさい)なのです。
アーサナや瞑想や哲学よりもまず学んで欲しかったのが他人へのServe(奉仕しなさい)だったのです。そして、これはスローガンなどではなく、グルデーヴ・シヴァーナンダの生き方そのものでもあったのです。グルデーヴの生涯を見ますと、人のための奉仕についてのエピソードがたくさん伝えられています。
金言と呼ばれるこうしたシヴァーナンダの言葉にもあるように、グルデーヴは、「奉仕というのは積極的でなくてはならない。常に他人に奉仕する機会を見つけるばかりか、自分で人々に奉仕する機会をつくらなければならない。」と語っています。
リシケーシのシヴァーナンダ・アーシュラムはそのような精神で満ちあふれています。

kind and loving
物語を紹介します。

あるとき母のヤショーダー女中たちが忙しそうにしているので、自分でバターをかき混ぜていました。かき混ぜながらクリシュナのことを考えていました。主クリシュナが子供の姿でお現れになっています。
主はお腹をすかせていらっしゃいます。主は母親への愛情のために、撹拌を止めて欲しいと思っていらっしゃいました。まず第一にお乳を吸わせて、それからバターを撹拌するべきだと母親にお示しになりました。
ヤショーダーはクリシュナを膝に乗せお乳を飲ませ、乳を吸うのにほほ笑みました。突然、火に掛けていたミルクが沸騰して溢れ、ヤショーダーはクリシュナを降ろしてミルクのところに行きました。母が自分を置いていったので主はとてもお怒りになり、唇と目を赤くして石を拾ってバターとの鍋を割ってしまわれました。主は泣きながら、バターを隠れてお食べになりました。
ヤショーダーがかえってくるとすっかり鍋は壊わされています。クリシュナの姿がないので、クリシュナの仕業に違いないと思うと頬には笑みが浮かびました。「ずる賢い子ね。鍋を割っておしおきがこわくなって逃げたのね」
見回すとクリシュナが大きな木臼を逆さまにした上に坐っていらっしゃいました。上から吊るしてある容器からバターを盗んでは猿に食べさせていらっしゃいます。自分が悪戯をしているとご存知なので、主がアチラコチラ落ち着きなく周りを見回していらっしゃるのが見えました。
ヤショーダーは後ろから忍び足で近づきました。クリシュナは母親の手に棒があることに目敏く気付き、逃げました。ヤショーダーは追いかけました。
クリシュナは決してヨーギーや思索家には近づくことのできない御方です。しかし主はヤショーダーのような偉大な検診車の喜びのために小さな子供の姿で遊んでいらっしゃるのです。
素早く逃げ回るクリシュナを捕まえることが出来ません。それでも息の続く限り早く走って、髪は解け、髪飾りの花も地に落ち、やっとクリシュナに追いつくことが出来ました。今にも泣き出しそうにしていらっしゃるクリシュナをヤショーダーは見下ろします。クリシュナも母の顔をご覧になっています。クリシュナの目は恐れで落ち着きなく動いています。ヤショーダーはクリシュナがあまりに怖がっているので恐れを和らげてあげなくてはと思いました。
ヤショーダーはクリシュナのことを最も思っている人でした。「あまり怖がらせるとおかしくなってしまうわ」と、棒を捨てました。そしておしおきとして手を綱で縛ることにしたのです。
彼女は知らなかったのです。バガヴァーンを縛ることは実際には不可能なのです。クリシュナには内も外も、始まりも終わりもありません。クリシュナは無限の御方であらゆる場所に偏在していらっしゃいます。実際にはクリシュナご自身が全物質宇宙の現れでいらっしゃるのです。けれども母のヤショーダーはクリシュナを自分の小さな子だと思っているのです。
それでもヤショーダーはクリシュナを臼に縛ろうと懸命です。縛ると5センチ足りませんでした。ヤショーダーは家からまた綱を持ってきて継ぎ足しました。でもまた5センチ足りません。ヤショーダーは家中から綱という綱を集めてつなぎ合わせてみますが、また5センチ足りません。ヤショーダーは微笑んでいますが驚いてもいます。一体何がおこっているのでしょうか。
クリシュナを縛ろうとしてヤショーダーは疲れてきました。主、クリシュナはヤショーダーが一生懸命に縛ろうとしているのがお分かりになると、それを哀れとお感じになり、母に縛られてあげようとお思いになりました。クリユナはヤショーダーの家で人間の子供のように遊んでいらっしゃいながらも素晴らしい遊戯をお示しになりました。
もちろんバガヴァーンを支配することは誰も出来ません。純粋な献身者はクリシュナの蓮華の御足に服従するのです。献身者は保護していただくのも、滅ぼされるのも主のご意志にお任せします。どんな状況にあっても、自分はバガヴァーンに服従するべき立場にあるということを献身者は決して忘れることがありません。そして主も献身者の保護の下に従属することに超越的な喜びをお感じになります。ですからクリシュナがここで母ヤショーダーに服していらっしゃるのです。
クリシュナの物語『母のヤショーダー、主クリシュナを縛る』より

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